土井正博
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 10:26 UTC 版)
埼玉西武一軍ヘッド兼打撃コーチ時代 (2012年9月30日、西武ドームにて) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府柏原市 |
生年月日 | 1943年12月8日(80歳) |
身長 体重 |
181 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1961年 |
初出場 | 1962年4月8日 |
最終出場 | 1981年10月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
この表について
|
経歴
アマチュア時代
幼少の頃に父親が戦死。産まれは大阪市港区だが、終戦間もなく、母と姉と共に藤井寺球場近くの柏原市に転居した。実家は本屋を営んでいたというが、土井が本塁打王を争っていた年に近隣の貰い火で焼失した(その事実は、シーズン後まで伏せられていたという)。大鉄高校では1年次の1959年から打線の中心として活躍するが、当時の大鉄高は、土井の1年上に伊藤幸男・小野坂清、同期に中井悦雄と後にプロに進む3人が強力投手陣を形成していた。同年の秋季近畿大会府予選準決勝で、八尾高校の久野剛司から本塁打を放ち注目を浴びる。近畿大会でも準決勝に進み、海南高校の木原義隆に抑えられ敗退するが、2年次の1960年には春の選抜への出場権を得る。甲子園では1回戦で東邦高校に逆転負けを喫した[1]。
同校の野球部は藤井寺球場で練習を行うことがあり、そこで当時近鉄バファローのスカウトを務めていた根本陸夫の誘いを受け、1961年に高校を2年で中退して近鉄に入団した。母子家庭で、親孝行を考えてのプロ入りであった。
当時の近鉄スカウト・荒井健は「土井の後には有力者が付いていてそっちの方にだいぶ金がかかったんです。当時としては約500万円かかっていますから相当な金額です。それで大鉄高を2年で辞めさせたんです」と証言している[2]。
近鉄時代
近鉄は1958年から1962年まで5年連続でパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最下位に低迷しており、特に土井が入団した1961年には日本プロ野球 (NPB) 記録となるシーズン103敗を喫するなど、「パ・リーグのお荷物」とすら言われる有様だった。土井は「一軍の監督だった千葉茂さんは、コツコツ当てるタイプの打者を好むんですよ。「ピストル打線」なんて言われていて、右方向に流して打つことが求められた。でも僕はホームランを打てる打者だと思っていたから、強く振ることにこだわっていたんです。そうしたら、シーズンが終わった後に球団から解雇を通告されました。」[3]と述べている。同年オフに千葉が監督を退任し、後任として別当薫が新監督に就任。同時にチーム名も「近鉄バファローズ」に改称されたが、別当はプロ入り1年目にして整理対象となっていた土井の長距離打者としての才能を見出し、翌1962年のオープン戦で4番打者に起用[4][5]。「18歳の4番打者」と売り出されたが[4]、レギュラーシーズンでは4番打者として起用されることはなかった[6]。同年は強肩俊足を活かし、中堅手として129試合に出場。チーム最多の16盗塁を記録するが、打撃面では今一つ伸び悩み打率.231、5本塁打、43打点にとどまった[4]。土井自身も重圧に耐えかねて出場メンバーから外すように願い出たこともあったが、別当は「打てないお前より、使っている俺のほうが苦しい。近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、起用を続けた[7][8]。1963年には左翼手に回り全150試合に出場。打率.276(リーグ12位)と成長がみられ、26試合に4番打者として起用される。外野守備でも20補殺とチームに貢献した。
1964年に3割30本100打点には僅かに届かなかったものの、リーグ最多安打を記録し、野村克也(南海ホークス)に次ぐ98打点を記録するなどさらに成長する。その後も近鉄の中心打者として長らく活躍し、これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、別当は結婚式の際には父親のいない土井の父親役を務め、仲人は根本陸夫夫妻[3]。1964年の28本塁打以降6年連続で20本塁打を記録し、オールスターでは1967年、1968年の2年連続でセ・パ両リーグ合わせて、ファン投票1位になる[3]。1967年のオールスターゲームでは第1戦で2本塁打を放ち6打点、第2戦で3点本塁打の長池徳二、第3戦で満塁本塁打の大杉勝男と共にMVPを獲得。新時代の「実力のパ・リーグ」を見せつけた。しかし同年は打率.323を記録するものの張本勲に次ぐ2位、93打点も野村に次ぐ2位に終わりタイトルを逃す。また1967年から2年連続でベストナインに選出される。
1970年には賭博容疑(黒い霧事件)で書類送検され1か月の出場停止処分を受ける。
1971年は打率.309で大杉と1本差の2位の40本塁打、113打点と自己最高の成績を残した。なお、近鉄在籍時代に記録した通算打点960は近鉄球団最多記録となった[9]。
太平洋・クラウン・西武時代
1974年オフには足と肩に衰えがあり外野守備に不安があったため、太平洋クラブライオンズに柳田豊、芝池博明とのトレードで移籍。当初、太平洋は柳田、東尾修と阪急ブレーブスの長池徳二との2対1のトレードで纏まりかけていたが、長池が拒否した為、上記のトレードとなった。
1975年には一塁手を兼ね、34本塁打を放ち本塁打王の初タイトルを獲得した。このトレードに関して、当時の近鉄監督であった西本幸雄が2003年のインタビューにて、トレードを決めた1週間後にパ・リーグが翌年からの指名打者制導入を決定したため「土井は守らなくてよくなった。大失敗だと思った」と後悔したことを語っていた[10][11]。
1977年、7月5日の対ロッテオリオンズ戦で村田兆治から安打を放ち、2000安打達成。1978年には打率.303、26本塁打を記録し、指名打者としてベストナインに選出される。同年オフに球団が国土計画に売却された後も、若い選手が多い西武の精神的支柱として野村・山崎裕之・田淵幸一らと共にチームを支えた。チームが平和台野球場(福岡県福岡市)から西武ライオンズ球場(埼玉県所沢市)に本拠地を移転する際には東尾修・竹之内雅史ら主力選手[注 1]のほとんどが反対していた。土井も当初は「聞いた瞬間、野球をやめようかと思った。九州で骨を埋めるつもりで来たし、もう転々としてゲームやるのもおっくうになってきた。出来るなら九州でやりたい。だめなら実家のある大阪の球団へ移りたい気持ちだ。同時に野球をやめて事業に打ち込みたい考えもある。とにかく正式な話を聞きたい」と発言していたが[12]、「俺はどこででもやる」とすぐに気持ちを切り替え、反対していた選手も徐々に納得していったという。
1981年には怪我のため出場試合数が減るが、シーズン中に「西武・長嶋茂雄監督招へい」と報道が出て、付き合いもあった長嶋の下でもうひと踏ん張り、と思っていた。しかし、根本に呼ばれ「次期監督は広岡に決まったようだから、お前は引退しろ」と言われた。管理野球の広岡とは合わないだろうという根本の考えであり[13]、当時の同僚であった大田卓司によると「広岡さんが監督になるとき、土井さんを『いらない』って言った。だから土井さんは根本さんに『もう引退しろ』と言われて、引退させられた。」と述べている[14]。根本の監督退任に伴うチームの若返り策にも理解を示し、現役を引退。
引退後
引退後はテレビ埼玉「ライオンズアワー&ヒットナイター」・日本短波放送「たんぱストレートナイター」解説者(1982年 - 1984年)を務める。最初は地元の大阪に帰郷するつもりでいたが、根本のはからいによりテレビ埼玉専属となり、根本からは「西武の試合だけ見とけ!」と厳命された。1984年にはTBS系金曜ドラマ「くれない族の反乱」に南部史郎役で出演。由紀さおり演じる河村律子の亭主で、事故で野球選手を引退、妻と別れ、15歳の娘は非行に走るという役柄であった。視聴率20%超えの人気ドラマに出演したが、視聴者からの問い合わせは全く無かった[15]。
1985年には約束通り西武に二軍打撃コーチとして復帰し、1986年には一軍打撃コーチに昇格。同年から自身と同じ「18歳の四番打者」の境遇にあった清原和博を指導し、在任中は3年連続リーグ優勝と2年連続日本一に貢献。1988年からは二軍打撃コーチに戻るが、1989年シーズン中の5月に麻雀賭博に絡んでいたことが発覚し、強制捜査で現行犯逮捕されて解任された[16]。
解任後は2度目のテレビ埼玉解説者(1990年 - 1991年)を経て、1992年には韓国KBO・三星ライオンズ打撃コーチを1年だけ務めたが、日本人の元プロ野球選手をコーチとしてKBOリーグに派遣するという日本プロ野球界の慣習の始まりとなった。
帰国後は西武一軍打撃コーチ(1996年 - 1999年)に復帰し、1997年と1998年のリーグ2連覇に貢献。3度目のテレビ埼玉解説者(2000年 - 2003年)を挟み、西武の一軍ヘッド兼打撃コーチ(2004年)→ヘッドコーチ(2005年 - 2007年)を務め、2004年のリーグ優勝・日本一に貢献。
2008年10月1日に行われた清原の引退試合では観戦に訪れ、2009年から2010年までサンケイスポーツ(関西版)評論家、2010年3月1日から3ヶ月間は阪神大学リーグ2部に所属する追手門学院大学特別コーチを務めた。
2011年から4年ぶりに西武一軍ヘッド兼打撃コーチを務めたが、2012年10月15日付で退団。
2013年からはサンケイスポーツ評論家に復帰し、2014年までは文化放送「ライオンズナイター」解説者も務めた。ただし関西在住のため、「ライオンズナイター」での中継出演は主に関西で行われるオリックス・バファローズ、阪神タイガース主管の西武戦の中継が主となる。「ホームランナイター」は原則としてABCラジオからのネット受けとなるため、聴取率調査期間や西武の優勝がかかった試合といった自社制作時を除いて出演はなかった[注 2]。
2014年10月9日からは中日ドラゴンズ特別コーチに就任し、2015年の春季キャンプまで打撃指導をすることが発表された[17]。また、2015年の秋季キャンプでも中日の特別臨時コーチを務め、高橋周平らを指導[18]。
2016年10月25日に中日の一軍打撃コーチに就任することが発表され、監督の森繁和によると「土井さんは最後の仕事ということで引き受けてくれた」と話した[19]。伸び悩んでいた平田良介を開花させ、ダヤン・ビシエド、ソイロ・アルモンテにも熱心に指導。キャンプ前には「高橋周平を一人前にすることが、私の球界への最後のご奉公」と話し、その言葉通り高橋はプロ入り7年目の2018年にレギュラーに定着し、初めて規定打席に到達した。中日退団にあたっては、サンケイスポーツの取材に対して「もともと2年契約だった。今年、チームを目標だったCSに出場させることができなかった責任を、コーチとして痛感している」と明かし[20]、10月18日付で退団した[21]。
2019年からはサンケイスポーツ評論家として復帰する。
選手としての特徴
土井は典型的なプルヒッターで、通算465本の本塁打のうち、ライト方向へ飛んだのは3本だけだった。一方、ミートについては引っ張り一辺倒のバッティングでありながら土井によればバットを折った記憶がほとんどなく、土井はこのことを誇りに感じているという。また選球眼が良く、通算四球数は三振数よりも195個上回っており、かつ三振数の打数に対する割合が.089と1割を切っている。この「三振率1割未満」は400本塁打以上を打った15人の中では張本勲、長嶋茂雄と土井の3人のみである。
打撃フォームはヘッドを投手方向に豪快に向け[22]、上半身を捻った独特なものであった。最初はカッコだけで始めたものだったが、これが意外にも余分な力が抜け、また成績も上昇したため定着させていった。晩年は全盛時と比べると捻りはおとなしいものになった。水島新司の漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルの1人であり[23]、作中にて景浦が「土井さんは俺のフォームの師匠だ。」と語っている。
現役時代はチームの優勝に縁がなく、日本シリーズ出場経験はない[注 3]。通算2452安打は、日本シリーズを経験していない選手の中では史上最多である。他に、名球会会員で日本シリーズ出場経験のないのは打者では阪神の藤田平、投手では大洋の平松政次がいるが、土井と同じく自身の引退後もチームはリーグ優勝、日本一に輝いている。
現役時代には、「18歳の4番打者」や高い成績を残しながら1975年に本塁打王のタイトルを獲得するまでタイトル獲得に恵まれなかったことから、「無冠の帝王」と呼ばれていた[24]。
注釈
- ^ 伊原春樹については、坂井保之は「埼玉県なんて聞いたこともない」とまで発言して売却・移転反対を訴えていたと自著『波瀾興亡の球譜:失われたライオンズ史を求めて』で記述しているが、伊原本人は2022年に出版された『俺たちのパシフィック・リーグ クラウンライター・ライオンズ』(ベースボール・マガジン社)掲載のインタビューで「芝浦工業大学のグラウンドと合宿所が埼玉県大宮市〈現:さいたま市大宮区〉にあり、埼玉県にいれば西武がどういう会社かわかる」と埼玉県への在住経験があったことや、「巨人時代に改築前の西武園球場で二軍戦を経験した」「あの西武が球団を持ってくれる嬉しさの方が大きかった」との証言をし、坂井の記述を否定している。
- ^ 「ホームランナイター」については2013年4月20日のオリックス対ソフトバンクの自社制作時に出演事例あり。
- ^ 近鉄は土井の移籍から5年後(1979年)、西武は土井の引退した翌年(1982年)にそれぞれ(西武は球団買収後)初めてリーグ制覇を達成した。
- ^ 土井がサムスン打撃コーチ時の監督が金で、加藤とは選手時代は太平洋、コーチ時代西武で同僚だった。
出典
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 大井広介「スカウト巡礼(8) 近鉄篇 元近鉄、現東映 荒井健スカウトに聞く」『ベースボールマガジン』1964年8月号、ベースボール・マガジン社、86–87頁。
- ^ a b c “「18歳の4番打者」が辿り着いたバッティングの極意【土井正博】”. 公研. 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b c “【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男”. ライブドアニュース (2014年6月10日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 2 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 4 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “土井正博 「教えられなかった死球の避け方」”. Number Web (2009年1月16日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 5 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール 2012年5月28日号 27ページ
- ^ “【追悼・西本幸雄さん】(上)「もう時効だから」と明かしたあの時の真相”. msn 産経ニュース. p. 3 (2011年12月10日). 2011年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ “【追悼・西本幸雄さん】(上)「もう時効だから」と明かしたあの時の真相”. msn 産経ニュース. p. 4 (2011年12月10日). 2011年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ 西日本新聞、1978年10月13日付。
- ^ サンケイスポーツ 2010年1月5日 6面
- ^ “【根本陸夫伝】選手全員の「行きつけの店」まで知り尽くしていた男”. web Sportiva (2015年11月21日). 2015年11月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ スポーツ報知「元西武土井正博氏TVドラマ出演中 なぜか反響なし"パ一筋の悲哀"」
- ^ “【根本陸夫伝】 「清原には余計なことを言うな」とコーチに厳命した男”. web Sportiva (2014年7月1日). 2014年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ “土井特別コーチ、大塚投手コーチ会見”. 中日ドラゴンズ公式サイト (2014年10月9日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “【中日】谷繁監督、“地獄キャンプ”を予告「基本中の基本とスタミナつける」”. スポーツ報知 (2015年10月28日). 2015年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ “<中日>来季コーチにオリ前監督の森脇氏が就任へ”. 毎日新聞 (2016年10月25日). 2016年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
- ^ “中日・土井打撃コーチが退団へ CS逃し「責任を、コーチとして痛感」”. サンケイスポーツ (2018年10月18日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “中日 退任のコーチ陣があいさつ 森脇氏「森監督と一蓮托生」 近藤氏「責任を取らないと」”. スポーツニッポン (2018年10月18日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ わざと振り遅れてホームラン。 「プロ最年少の四番打者」が考えた極意
- ^ ベースボールマガジン9月号、2007年No4、ベースボール・マガジン社、p112-113
- ^ “土井正博「三振の少ない強力プルヒッターの打撃理論」/プロ野球20世紀の男たち”. 週刊ベースボールONLINE (2019年9月2日). 2021年4月27日閲覧。
- ^ “土井正博 「教えられなかった死球の避け方」(2/3)”. Number Web (2009年1月16日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン 2008年7月号より
- ^ “加藤初さん(元巨人)が亡くなって3年 晩年の韓国での指導者生活の日々を偲ぶ”. Yahoo!ニュース (2019年12月11日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “【本紙専属評論家ここだけの話】土井正博氏、新人・清原育成へ根本氏から金言「自分の18歳の時と比べてみろ」”. サンケイスポーツ (2020年5月27日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ パンチ佐藤 が迫る】 清原和博 ・ イチロー を指導した名打撃コーチ 土井 ・ 新井 のぶっちゃけ話。やりづらかった監督、やりやすかった監督は!? - YouTube
固有名詞の分類
- 土井正博のページへのリンク