十句観音経 十句観音経の概要

十句観音経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 15:51 UTC 版)

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大乗経典観音経系経典に属し、わずか42文字の最も短い経典として知られる[3]中国大陸ウイグル地方で成立した高王観世音経(高王白衣観音経)との関係が強い偽経だが[1]、古来ただ何度も唱えるだけでご利益を得られるとされており、人気が高い[注釈 1]

全文

観世音。南無仏。(かんぜおん。なむぶつ。)
与仏有因。与仏有縁。(よぶつういん。よぶつうえん。)
仏法僧縁[注釈 2]。常楽我浄[注釈 3]。(ぶっぽうそうえん。じょうらくがじょう。)
朝念観世音。暮念観世音。(ちょうねんかんぜおん。ぼねんかんぜおん)

念念従心起[注釈 4]。念念不離心[注釈 4][注釈 5]。(ねんねんじゅうしんき。ねんねんふりしん) — 『十句観音経』

注:()内はよみがな。原文テキストは”小林正盛[注釈 6]編『真言宗聖典』, 森江書店, 大正15, p.113”。旧字体を新字体に改める。

口語訳

観世音菩薩に帰依します。

我々は仏と因縁でつながっています。[注釈 7]
三宝の縁によって、「常楽我浄」を悟ります。[注釈 8]
朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。

観世音菩薩を念じる想いは我々の心より起こり、また観世音菩薩を念じ続けて心を離れません。

来歴

中国

『十句観音経』に関する古文献は宋代の3本で、いずれも下記南北朝時代南朝宋王玄謨(おうげんぼ)の事績を伝えるものであるが、十句観音経のテキスト部分にも若干の異同がある。なお南朝梁(502 - 557年)に完成したとされる『宋書』にもこの事績は書かれているが、『觀音經』とあるだけで経文は収録されていない[6]

該当する文献は、敗走した王玄謨が辛くも死罪を免れたという話で、最も古いとされるものは『太平広記』(977 – 978年)、『太平御覧』(977 - 983年)の2本で、ほぼ同時代の撰述である。内容は『談藪』からの抜抄とされており、2本ともほぼ同じである[注釈 9]。さらに時代を下ると、中国天台宗の祖師列伝を記録した咸淳 四明東湖沙門志磐撰 『仏祖統紀』(1269年)があり、記述量は多くなっている。繁簡あるものの内容は次のような南北朝時代の記録である。

南朝宋の元嘉27年(450年)、第三代皇帝文帝劉義隆は劉康祖・沈慶之らの反対を押し切って北魏へと攻め込んだ。柳元景薛安都・龐法起らの本軍は連戦連勝して潼関を陥れたが、一方、淮北に別軍を進めた王玄謨は、碻磝を陥れ、滑台を包囲したにもかかわらず、北魏の太武帝の親征軍が大挙して渡河したため敗走に追い込まれた。そのため文帝は止むを得ず本軍を撤退するはめになった。

王玄謨:宋太原の王玄謨は爽邁にして不群なり。北征し律を失い、軍法當に死とす。夢に人謂て之を曰く:「汝觀世音を千遍誦すれば、禍免を得るべし」謨曰く:「命旦夕に懸る、千遍何を得べき」乃(かさ)ねて授して云く:「觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有縁。佛法相縁。常樂我情。朝念觀世音。暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心」既に而して誦滿千遍。將就きて戮(りく)さんに、將軍沈慶之諫(いさ)め、遂に免れり。歴位尚書金紫豫州刺史。原闕出處。明鈔本作出談藪

— 『太平広記』卷一百一十一 報應十 觀音經 王玄謨の条、(原文訓み下し)

『談藪』に曰く:王玄謨は爽邁にして不群なり。北征し律を失い、法當に死とす。夢に人謂て之を曰く:「汝觀音經千遍誦すれば、禍免れるべし」謨曰く:「命旦夕に懸る、千遍何に由り得べき?」乃ねて口授して云く:「觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有縁。佛法相縁。常樂我淨。朝念觀世音。暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心」而して滿千遍誦す。將就きて戮さんに、將軍沈慶之諫(いさ)め、遂に免れり。

— 『太平御覧』卷六百五十四 釋部二 談藪の条冒頭、(原文訓み下し)

二十七年。王玄謨、北征し律を失い、蕭斌これを誅さんと欲す。沈慶之、諌(いさ)めて曰く「仏狸(太武帝の幼名)の威は天下を震わす。豈(あに)玄謨の能くする所ならんや。当(まさ)に戦将を殺すは徒(いたずら)に自ら弱める耳(のみ)、乃(すなわ)ち止むべし」と。初め玄謨、将(まさ)に殺されんとするに、夢に人告げて曰く「観音経を千遍誦すれば免るべし」と。仍(かさ)ねて其の経を口授して曰く、「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。既に之を覚誦し輟(や)めず。忽(たちま)ち唱うれば刑停(とどま)る。後に官、開府に至り年八十二

— 『仏祖統紀』巻第三十七 文帝(義隆高祖第三子) 元嘉二十七年 の条、(原文訓み下し)

元嘉27年(450)、王玄謨は北へ攻め込んだが敗北し、蕭斌は玄謨を処刑しようとした。沈慶之は蕭斌を諌めて、「太武帝の威は天下に鳴り響いております。どうやっても玄謨ではかなわないでしょう。武将を殺すのは自国の戦力を弱くするだけです。処刑はお止めください」といった。玄謨は処刑されそうになったとき、夢の中で人から「観音経を千遍誦すれば助かるであろう」と告げられた。観音経も夢の中の人に口伝えで教えてもらった(その経文は以下の通りである)。 「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。 玄謨は常に観音経を唱えてやめようとしなかった。するとたちまち死刑執行が停止された。玄謨は官位が登り幕府を開ける(開府)までになって、八十二歳まで生きた。

— 同上、(口語訳)

この話は450年の事跡ということであるが、他に記載する古資料がないため信憑性は乏しく、『太平広記』ないし『仏祖統紀』撰述の時代に『十句観音経』が普及していたということを示唆するのみである。

このほかに、北魏の孫敬徳が処刑されそうになったときに、同一の経文を唱えたところ、死刑執行人が刀を振り下ろしても刀が折れてしまうという霊験があったという伝説もあるが、孫敬徳が唱えたのは別の『高王観世音経』であるともされる。

日本

日本では、霊元天皇(1654 - 1732年)が譲位して法皇になったあと、最も霊験あらたかな経典を霊空和尚(1652- 1739年)に探させた結果、これに行き着いたという伝説がある[7][注釈 10]。 しかしこの伝説は江戸時代白隠慧鶴(1686 - 1769年)が『延命十句観音経霊験記』に述べている[9]以外に裏づけがないようである。本経、すなわち『十句観音経』を重要視したのが白隠禅師であった[10]。白隠は同著において「此の経の霊験、老僧が身の上に於ても心も言葉も及ばざる有りがた事ども数多たびこれあり」として、十句観音経の功徳を讃える[11]。上記の他いくつかの伝説を採り上げ、偽経といえどもこれだけ霊験があるのだからと[注釈 1]、人々に唱えることを推奨した[12][注釈 11]。現在も白隠の再興した臨済宗を中心に、日常の読経や写経などに用いられている。

また、本来の「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」は、短い偈文(世尊偈)部分のみでも500字を越える長大な経典であり日常の読経としては長すぎるため、代用として十句観音経を読むことも行われており、鎌田茂雄などの禅僧がそれを薦めている。

エピソード

1966年、第1次佐藤第3次改造内閣の坊秀男厚生大臣は、国会において自身の弾劾演説を受けている最中、精神を落ち着かせるために手帳に懸命に十句観音経を写経していた[16]。坊は東京都全生庵の平井玄恭老師や三島龍沢寺中川宋淵老師の勧めにより、十句観音経に親しんでいたという[16]。このことが禅僧の松原泰道の眼に留まり、松原は後にこれを著書で取り上げた[16]。松原の著書の推薦文は坊が書いている。


注釈

  1. ^ a b 然るに此御經、世の人多く怪む者多し、大凡五時八時の間には、華嚴部か、阿含部か、方等 般若 法華部か、五千四十八巻の中、何れを尋ねさがして終ひに正しき出所なし。如何様是は必ず僞經ならんと、眉を皺むる人ある由、何者にせよ甚だ無知の穿鑿なり[4]。汝知らずや、此經は漢土にては、觀世大士法師の形を現じ玉ひ、孫敬徳と云ひし者に口づから授け玉ひ、我朝にては北野の御神正しくも沙門の形を現じ面のあたり授け玉ふ、豈疑ひの有るべきや、熟々考ふるに、彼北野の御神も、内密は即ち菩薩本地十一面觀世大士の御化身なる由、蟠桃稿と云へる双紙の面に分明なり、僞にせよ眞にせよ斯ばかり靈驗ましまして、世上を利益し玉ふからには、近松文佐が作にもせよ、至道軒が説にもせよ、随分信仰申し晝夜に讀誦し、此御經の利益に依りて在家は家業繁榮し、火難盗難水難等を逃れ、萬事目出度浮世を渡らば上もなき吉兆ならずや、出家は次第に信心堅固大道の淵源に徹し、常に勤めて大法施を行じ、大菩提を成就せん事皆此經の功徳ならずや、武士は晝夜に忠勤を励みまし、武術を精錬する間も片時も更に間斷無く、勤めで竊に此經文を秘誦し、武運を養ひ頴氣を増し、君を堯舜の君にし、民を堯舜の民にし、子孫は次第に繁榮し、王位を守護し萬民を安撫し、御當家御代長久萬々歳を祈らば、之に過ぎたる大忠節は是有るべからず。譬へば彼の、人蔘黄祇忍冬、莎蔘等の如き大妙藥の出所正しからず來由明らかならずと云ひて之を棄擲して可ならんや、只彼の功能の難治の重症を治し、人の病苦を救ふを以て貴としとすらくのみ、如何なる愚夫か彼の出所を尋ね來由を問ふに暇あらんや。
  2. ^ 「仏法僧縁」につくるのは日本の書物のみで、来歴に掲げる中国伝承の『太平広記』『太平御覧』『仏祖統紀』は「仏法相縁」につくる。
  3. ^ 『太平広記』は「常楽我情」につくる。
  4. ^ a b 白隠慧鶴『延命十句観音経霊験記』は「念念」を「念々」につくる。(明治28年 経世書院刊 末尾掲載の経文
  5. ^ 『太平御覧』は「念仏不離心」につくる。[1]
  6. ^ こばやし しょうせい(1876年 - 1937年)茨城県古川市出身。明治 - 昭和前期の真言宗僧侶。
  7. ^ 一切衆生は如来の智慧徳相を有し(仏の種を有す)、一切衆生は実在せる一切の諸仏と縁を持つ[5]
  8. ^ 「仏法相縁」であれば「仏法の相(認識されるもの即ち「境」が「認識されたすがた形」)は常楽我浄の悟へとつながります」となろう。
  9. ^ 『談藪』の原文は確認できない。
  10. ^ 〔 延命十句と佛教大綱 〕[8] 此の『延命十句觀音經』は人皇百十二代靈音天皇が御位を譲られて法皇として佛教御研鑽の時、比叡山の靈空律師に、『文句の最も短くて、其の功徳の最も大きいお經を選び出せよ』との御仰せがあつたので、律師は普く一切經を探して支那の南北朝時代の王玄謨といふ人の誦したこの經を得て上覽に供せられたといふ言ひ傅へのある最も簡單な御經でありまして句は十句、字數は僅かに四十二字でありますが、これに佛経の大要が悉く含まれて居ると申しても差支へないのであります。
  11. ^ ただし白隠は読誦による功徳と現世利益に関して[13]「如上逐一枚擧する所の限りも無き十句經の靈驗、正眼に看來れば唯是世間住相有爲夢幻空華の談論取るに足らず。茲に一段眞正最妙最玄最も第一なる底の大靈驗有り、乞ふ試に之を論ぜん」と述べ[14]、「座禅しつつ十句観音経を念誦することで悟りに進め」と説く[15]

出典

  1. ^ a b 観音さま入門 1981, p. 148.
  2. ^ 観音さま入門 1981, p. 150.
  3. ^ 原田祖岳 1947, p. 12第一節 十句観音経と一切の佛教
  4. ^ 白隠広録(2) 1902, p. 184原本76-77頁
  5. ^ 原田祖岳 1947, pp. 44–46.
  6. ^ 宋書 卷七十六 列傳第三十六 朱修之宗愨王玄謨
  7. ^ 原田祖岳 1947, p. 21第三節 十句観音経の由来
  8. ^ 修養大講座(10) 1940, p. 204原本395頁
  9. ^ 『延命十句観音経霊験記』(明治28年 経世書院刊 p.12-13
  10. ^ 観音さま入門 1981, p. 149.
  11. ^ 原田祖岳 1947, pp. 13–20第二節 十句観音経と白隠禅師
  12. ^ 『延命十句観音経霊験記』(明治28年 経世書院刊 pp.13-14
  13. ^ 観音さま入門 1981, p. 151.
  14. ^ 白隠広録(2) 1902, p. 202原本113頁
  15. ^ 原田、十句観音経霊験記 1979, pp. 81–82.
  16. ^ a b c 観音さま入門 1981, pp. 160–162.


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