内大臣 内大臣の一覧

内大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 00:43 UTC 版)

内大臣(ないだいじん)は、日本律令官制太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。


  1. ^ 藤原良継・魚名の例は位階序列が上位の先任の大臣(右大臣大中臣清麻呂)と実際の太政官首班との地位のバランスを取るための措置、藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言への礼遇措置、藤原兼通は序列下位の公卿(当時兼通は権中納言)が次期関白に内定したために大臣に就任して関白就任資格を整えるための措置であり、いずれも律令制が想定する規定から外れた大臣任官を実現させるための臨時の措置であり、事態が解消すれば廃止される性質のものであった(実際に、魚名は左大臣、兼通は太政大臣就任に伴い、良継・高藤は病死によって廃止されている)。
  2. ^ 当時の摂政藤原兼家は、自分の没後に自分の子弟が摂政関白を継承できなくなることを憂慮して、万が一に備えて長男道隆を大臣に任じようとしたが、太政大臣藤原頼忠左大臣源雅信右大臣藤原為光がいずれも健在であった。そのため、道隆を内大臣に据えようとしたのである。これに対して円融法皇一条天皇実父)は、律令に定められた大臣定員3名を無視するものとして強く反対したため、兼家が法皇に奏上を行って漸く許可されている(『小右記永祚元年2月5日条)。道隆は関白就任後に内大臣を辞任したが、そのまま弟の道兼、次いで道隆嫡男の伊周が内大臣に任命され、これを先例としてそれ以後も断続的に後任の内大臣が任命された。
  3. ^ この場合の「功績」には天皇外戚や側近の権臣も含まれる。
  4. ^ 内大臣廃止後に左大臣となった島津久光を例外とすれば、武家の大臣任官者は全て最初は内大臣に任じられている(ただし、平重盛宗盛は、高倉天皇中宮平徳子の兄弟であり、外戚としての側面も有する)。
  5. ^ 寛治4年(1090年)の例では、正月の節会内弁のうち、元日節会を左大臣、白馬節会を右大臣、踏歌節会を内大臣が分担した例がある(松本、1994年、P186)。
  6. ^ これは、太政大臣右大臣が空席で、左大臣藤原師実)が関白を兼ねていて一上の資格がなかったことによる。
  7. ^ これは右大臣正二位以上でないと任じられなくなったことに対応していると考えられている(松本、1994年、P184-185)
  8. ^ これに対して左右両大臣は年給は内大臣と同じであるが封戸1500戸職田30町であり、大納言は年給が諸国目1人1分1人年給600戸職田20町とされている。
  9. ^ 李元雨 『幕末の公家社会』 吉川弘文館2005年、P128-131 ISBN 978-4-642-03402-9
  10. ^ 天智天皇8年10月15日669年11月13日)内大臣に就任。
  11. ^ 宝亀8年1月3日777年2月15日)内大臣に就任。
  12. ^ 宝亀10年1月10日779年1月31日)内大臣に就任。
  13. ^ a b 『諸家伝』によれば、権大納言中院通為は永禄8年(1565年)8月「所労危急」のため書状で大臣昇任を嘆願し、天皇の勅許を得たが、9月3日加賀在国のまま没したので、後日、朝廷で薨日付の任大臣宣下が行われたという。しかし、このような任官は異例であり、中には贈官として記載する史料もある(広橋家本『公卿補任』)。
  14. ^ 『諸家伝』が天正15年11月9日1587年12月8日)就任、同日死没とするのは誤り。『中院通村日記』寛永3年10月6日条によれば、公国は内大臣任官の際、現職の織田信雄から一時的に「借渡」したといい、恐らく臨終に際してこのような異例の措置が取られたのだろう。差し当たり『兼見卿記』に基づき、死没日を就任日と推定する。
  15. ^ 続本朝通鑑』は慶長11年9月1日1606年10月2日)、『歴朝要紀』は同年9月17日10月18日)とする。
  16. ^ ここでの就任日は、朝廷で任大臣宣下が行われた日を指す。
  17. ^ 公卿補任』『諸家伝』は3月30日とするが、当月は小の月であるため30日が存在しない。差し当たり十三年忌に当たる4月1日を追贈日と推定する。
  18. ^ 大日本史料稿本』は存疑とする。
  19. ^ 文治元年(1185年)8月に義朝の首が源頼朝の許に届けられた際、勅使を墓前に派遣して内大臣正二位を追贈した旨が見える(「紺掻之沙汰」)。これが史実であれば、武家に対する鎮魂の贈位・贈官の早い例として注目されるが、『玉海』『吾妻鏡』などの一次史料で確認されないばかりか、後世の事例にも全く引用が見られない。


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