マルティニーク 歴史

マルティニーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 06:20 UTC 版)

歴史

マルティニークは、1502年ジェノヴァ人の航海者、クリストファー・コロンブスの第四次航海により「発見」されたが、を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続けたこの島は暫くヨーロッパ人の侵入を退けた。しかし、1635年セント・キッツ島を拠点にしたフランス人のピエール・ブラン・デスナンビュック(Pierre Belain d'Esnambuc)が上陸した。既にイギリス人による入植が行われていたが、これによってフランスが主導権を握り、1658年フランス軍は抵抗する島民を虐殺、島民は絶滅したといわれる。

島の植民地化が進むと、マルティニークはアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビプランテーション農業で経済的に発展し、大西洋三角貿易によってサン=ドマンググアドループと共にフランス本国に多大な利益をもたらした。この時期に、後にエメ・セゼールフランツ・ファノンが批判した、肌の色によって全ての序列が決定される階層社会が成立した。

18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年に、一時イギリスによって占領されたが、1763年に発効したパリ条約により、フランスはカナダと引き換えに島を確保した。アメリカ独立戦争が始まると、1780年に英仏の間でマルティニーク島の海戦が行われた。

1789年にフランス革命が勃発すると、1791年にはサン=ドマング黒人大暴動に続いてマルティニークでも黒人奴隷は自由を求めて反乱を起こしたが、間もなく王党派のグラン・ブラン(大白人)によって奴隷反乱は鎮圧され、王党派は共和制フランス(第一共和政)を裏切ってイギリスに帰属し、1794年から1802年のアミアンの和約までイギリス軍の占領が続いた。

1793年に、フランスの国民公会では、ジャコバン派ロベスピエールによって奴隷制の廃止が決議されていたが、1802年にマルティニークがフランスに返還された後に、マルティニークのグラン・ブラン出身のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚していたナポレオン・ボナパルトは、サン=ドマングの再征服を行ってトゥーサン・ルーヴェルチュールを捕らえ、カリブ海の植民地での奴隷制の復活を考えた。ジャン=ジャック・デサリーヌによって指導されたハイチ人はフランス軍を破り、1804年にハイチは独立を達成したが(ハイチ革命)、ナポレオンはその他の西インド諸島の植民地での奴隷制を再導入し、マルティニークでも奴隷制が復活した。

1763年、大白人(グラン・ブラン)の娘としてジョゼフィーヌ・ド・ボアルネナポレオン・ボナパルトの妻)が生まれ、1796年にジョゼフィーヌがナポレオンと結婚した。

マルティニークに聳えるヴィクトル・シュルシェールの像。シュルシェールは現在もアンティーユ人に敬愛されている。

1848年2月にフランス二月革命によって第二共和政が樹立されると、4月にはヴィクトル・シュルシェールによって再び奴隷制の廃止が実施されたが、奴隷制廃止の時期が引き伸ばされたため、黒人奴隷による暴動が勃発した。その後ナポレオン3世第二帝政下で黒人選挙権は失われたものの、普仏戦争の敗戦によって第三共和政が成立すると、以降は「文明化の使命」の概念により、黒人への選挙権の復活、植民地県議会の開設、徴兵制の導入など、政治面、文化面の双方において、マルティニーク人のフランス国民への同化政策が進められた。

1888年頃に島内で生産されたラム酒の広告。当時の白人と黒人の立場が象徴的に描かれている。

1902年にはプレー火山が爆発、火砕流で当時の県庁所在地だったサン・ピエールで住民3万人が死亡、街は壊滅し、島の首府がフォール・ド・フランスに移転した。

第二次世界大戦が勃発し、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、マルティニーク政府は親独中立のヴィシー政権に帰属し、島にはヴィシー政権の水兵が上陸した。フランス銀行の金塊をカナダに移送していた軽巡洋艦エミール・ベルタンは、降伏を受けて行き先をマルティニーク島に変更し、金塊ともども島に留まった。連合国とは、マルティニーク島を爆撃しない代わりに、マルティニーク島からフランス軍艦を出航させないという協定が結ばれた。大戦中の島ではナチズム風の人種主義が露骨な形で顕れたが、1943年中頃にレジスタンスが蜂起し、連合国側の自由フランスに鞍替えした。エミール・ベルタンは連合国の南フランス上陸作戦に投入され、フランツ・ファノンのようなマルティニーク出身の兵士も、アルザスの戦いなどにおいて連合国側で戦った。

第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代を迎えると、1945年にフランス共産党から立候補した黒人文学者で教育者のエメ・セゼールがフォール市市長に当選した。かつてネグリチュード運動を主導し、フランスの「白い普遍」に対する反逆者だったセゼールは、以後フランスへの同化政策を採らざるを得なかった。

1946年にマルティニークはフランス海外県となった。セゼールはその後も自治を求めたが、当時の首相であったシャルル・ド・ゴールにとって「海の上の小さな埃」に過ぎなかったマルティニークに自治は認められず、1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニークは同化されるべき海外県との扱いから脱することが出来ず、現在も海外県のままである。また、2002年にはユーロの流通が始まった。


  1. ^ a b Martinique Biosphere Reserve” (英語). UNESCO (2022年6月10日). 2023年3月22日閲覧。
  2. ^ a b Etang des Salines | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2023年7月13日). 2023年7月20日閲覧。
  3. ^ UNESCO - The Martinique yole, from construction to sailing practices, a model for heritage safeguarding” (英語). ich.unesco.org. 2023年3月22日閲覧。
  4. ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、36頁。ISBN 978-4-7993-1314-5 






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