ファシズム批判 各論者の批判の基盤と姿勢

ファシズム批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 21:27 UTC 版)

各論者の批判の基盤と姿勢

  • 長谷川如是閑の場合
    • 基盤紙=公紙『我等』『批判』『経済往来』『中央公論』『改造
    • 公の批判書=『日本ファシズム批判』(大畑書店、1932年)[6]
    • 姿勢=マルクス主義者かと思わせる、鋭利な社会的分析により、ファシズム批判をリードする。初期において最初でかつ本格的な体系的分析と批判を行うものの、中期以降は沈黙する[7]。この姿勢により、批判者よりも抵抗者である、とも評されるし、あるいは批判者・抵抗者から大勢順応主義者へ「転向」したのだ、との説も出ることになる[8]
    • 批判の結果=1933年共産党シンパ事件に巻き込まれ、以降国法の範囲内で行動することの表明を余儀なくされた。
  • 桐生悠々の場合
    • 基盤紙=公紙『信濃毎日新聞』(1928年1月-33年9月)、個人紙『他山の石』(1934年12月-41年8月)
    • 公の批判書=なし
    • 姿勢=五・一五事件批判、関東防空大演習を嗤う、日支再戦せば、第二次世界大戦の予言、国体明徴より軍勅明徴、清算期がきたのだ、新体制批判、日米もし戦うならば(以上、太田雅夫[9]
    • 批判の結果=『信濃毎日新聞』を追放され、名古屋で『他山の石』で食い繋ぐことになる。
  • 石橋湛山の場合
    • 基盤紙=公紙『東洋経済新報
    • 公の批判書=なし
    • 姿勢=二・二六事件批判、日中戦争批判、三国軍事同盟批判、大東亜共栄圏構想批判(以上、増田弘[10])、特殊権益の否定、間接利益論、国際協調の努力、ブロック経済論批判、東亜新秩序との対決、満州無用論、個人主義(以上、姜克實[11])。ただし、その論調は既成事実を認めたり、批判のトーンが鈍ったりした。それをどう評価するかは分かれるところである。営業紙を守るために譲歩をした、「戦術上(表面上)の退歩」と見る向きがある[12]一方、批判でもなく抵抗でもないと見る向きもある[13]
    • 批判の結果=『東洋経済新報』用の紙の量を落とされるなど、営業上の制約を受けたが、終戦まで発禁にもならず、営業を持続する。
  • 矢内原忠雄の場合
    • 基盤紙=公紙『中央公論』、個人紙『通信』(1932年11月-37年12月)、矢内原忠雄事件以降は個人紙『嘉信』(1938年1月-61年12月)
    • 公の批判書=『満州問題』(岩波書店、1934年)、『民族と平和』(岩波書店、1936年)
    • 姿勢=国家至上主義批判(矢内原伊作[16])。キリスト者の立場から、ファシズム思想を断罪するものである。
    • 批判の結果=東京帝国大学から追放される(矢内原忠雄事件)。
  • 清沢洌の場合
    • 基盤紙=個人日記『暗黒日記』(1942年12月-45年5月)
    • 公の批判書=なし
    • 姿勢=帝国主義外交批判、日本の中国政策を批判、日米戦争を予感、ドイツとの連携に警告、統制主義批判、官僚主義批判、教育批判(以上、江口敏[17]
    • 批判の結果=『暗黒日記』以外には公では批判しなかったため、表だった弾圧はなかった。
  • 正木ひろしの場合
    • 基盤紙=個人紙『近きより』(1937年4月-49年10月)
    • 公の批判書=なし
    • 姿勢=中国旅行での、日本軍将兵による中国人抑圧状況を活写した。また、東条英機首相批判、首なし事件などを記載した。
    • 批判の結果=『近きより』はたびたび廃刊圧力を受けるが、終戦まで長らえる。
  • 生方敏郎の場合
    • 基盤紙=個人紙『古人今人』(1935年-1945年)
    • 公の批判書=なし
    • 姿勢=自由主義者ユーモリストとして、軍部戦時体制下社会を批判した。
    • 批判の結果=警戒されていなかったせいか、『古人今人』も個人もさしたる弾圧は受けなかった。

  1. ^ それら項目間の関係は「ファシズム」を参照。それら項目のうちで最大の問題は戦前戦時下日本をファシズムと規定できるか、できないかである。つまりファシズム存在説とファシズム不在説である。当初は存在説一色であったが、その後不在説が登場してきた。不在説の論点を示す文献として、中村菊男『天皇制ファシズム論』(原書房、1967年、27-40頁)があり、その批判の論点を示す文献に安部博純『日本ファシズム論』(影書房、1996年7-32頁)がある。
  2. ^ 当時の出版物に、室伏高信『ファッショとは何か』(1931年)、『ファッショ治下の伊太利』(1931年)、『ファッショかマルクスか』(1932年)、土方成美『ファシズム』(1932年)、佐々弘雄『日本ファシズムの発展過程』(1932年)、長谷川如是閑『日本ファシズム批判』(1932年)、河合栄治郎『ファッシズム批判』(1934年)、今中次麿具島兼三郎『ファシズム論』(1935年)などがある。
  3. ^ 大政翼賛会批判の論文が少ないのは、この頃までにほとんどの論者が知的に粛正されたからである。
  4. ^ 満州事変日中戦争、三国軍事同盟などに対して知識人たちは批判してきたが、これらの批判はファシズム批判と言えるかどうかの問題がある。帝国主義外交、非協調外交、他国への進出、ブロック経済論への批判ではありえても、それがそのままファシズム批判とは言えない、という指摘がある。ただ、ファシズムの行動要素として、対外進出・侵略がある以上、その行動要素を批判することはファシズム批判に当たる、とも言える。これを受けて、青木育志はファシズム批判の類型として、海外への進出の批判を一要素とした。
  5. ^ 六つの観点とはi) 生存権説、ii) 経済ブロック説、iii) 戦術上説、iv) 持たざる国説、v) 中国民衆の利益説、vi) アジアの盟主説である。『河合栄治郎全集』第19巻、社会思想社、1969年、327-332頁。河合の「日支問題論」は複雑な構造となっている。前半は批判的であるが、後半は是認的となっている。前半は従来のファシズム批判論の続きであるが、後半は一愛国者としての日中論となっている。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、275-278頁参照。
  6. ^ 『日本ファシズム批判』は論文集であり、一書と見れば、分析に重きがかかって、批判は少ない感じを受ける。プチ・ブルの立場からの分析がプチ・ブルの立場からは批判であるとの見解もある。
  7. ^ 長谷川如是閑は1933年以降1945年までの約11年間完全沈黙を守った。
  8. ^ 例えば、家永三郎橋川文三、土方和雄の批判抵抗類型論では、長谷川如是閑は考察対象になっていない。「批判と抵抗の類型」の項目参照。
  9. ^ 太田雅夫『評伝桐生悠々――戦時下抵抗のジャーナリスト』不二出版、1987年。
  10. ^ 増田弘『石版湛山――リベラリストの神髄』中公新書、1995年、119-142頁。
  11. ^ 姜克實『石橋湛山――自由主義の背骨』丸善ライブラリー、1994年、92-175頁。
  12. ^ 例えば、表面上内閣を批判することで実質上陸軍を批判し、表面上日本国民を批判することで実質上で陸軍を批判する、レトリックの業を主張するのはねず・まさしである。ねず・まさし『現代史の断面・満州帝国の成立』校倉書房、1990年、133-144頁。彼の愛国心と営業魂の葛藤がそうさせたのするのは米原謙である。米原謙『日本政治思想』ミネルヴァ書房、2007年、200-205頁。抵抗の哲学を持っていたとするのは姜克實である。姜克實『石橋湛山――自由主義の背骨』丸善ライブラリー、1994年、175頁。
  13. ^ 例えば、橋川文三や土方和雄の批判抵抗類型論では、石橋湛山は考察対象になっていない。つまり権力に迎合したのであって、抵抗でも批判でもない、ということである。「批判と抵抗の類型」の項目参照。
  14. ^ 『ファッシズム批判』は論文集であり、この中に五・一五批判論文など、ファシズム批判論文7編が含まれる。
  15. ^ 『時局と自由主義』は論文集であり、この中に二・二六事件批判関係の三論文が含まれる。
  16. ^ 国家至上主義批判については、矢内原伊作『矢内原忠雄伝』みすず書房、1998年、429-435頁。
  17. ^ 保阪正康監修、江口敏『志に生きる!――昭和怪物伝』清流出版、2003年、108-116頁。北岡伸一へのインタヴューによる。
  18. ^ 抵抗批判の区別についても論者によっちまちまちであるが、一般には公開紙に氏名入りで批判の文章を載せることや、公開の出版社から批判書を出版することが批判であり、それ以外は非批判つまり抵抗である、と言えよう。抵抗には私的な雑誌日記に批判の文章を記述すること、体制側の公開紙に寄稿しない、体制側の行事に参加しないことが含まれる。和田洋一によると、抵抗には次の四つの特徴がある。(1) 強者が加えてくる抑圧、干渉、暴力に対して、弱者が示す不従順、非妥協、非迎合である。(2) 強者と弱者とが睨み合っているうちに、弱者が武力、暴力を用いることもある。(3) 弱者としては我が身に降り掛かってくる危険を覚悟しなければならない。(4) 自分自身の明白なプログラムを持たない。和田洋一「抵抗の問題」同志社大学人文科学研究所編『戦時下抵抗の研究――キリスト者・自由主義者の場合Ⅰ』みすず書房、1968年、5-11頁。
  19. ^ 長谷川如是閑石橋湛山河合栄治郎が考察の対象になっていない。矢内原忠雄は考察の対象ではあるが、脇役扱いされている。同志社大学人文科学研究所編『戦時下抵抗の研究――キリスト者・自由主義者の場合I』みすず書房、1968年。同編『戦時下抵抗の研究――キリスト者・自由主義者の場合II』みすず書房、1969年。
  20. ^ 家永においては長谷川如是閑河合栄治郎の批判は考察の対象になっていない。これは考察対象を太平洋戦争期間に限っているからである。家永三郎『太平洋戦争』岩波書店、1968年、234-255頁、第2版、岩波書店、1986年、255-280頁。
  21. ^ 政党議会人の批判と明治スピリットの抵抗は相互にオーバーラップしているのが難点と言える。長谷川如是閑石橋湛山が考察対象外となっている。橋川文三「抵抗者の政治思想」橋川文三、松本三之介編『近代日本政治思想史II』有斐閣、1970年、399-414頁。
  22. ^ 長谷川如是閑石橋湛山が考察対象外となっている。土方和雄「日本型ファシズムの台頭と抵抗」古田光、作田啓一、生松敬三編『近代日本社会思想史II』有斐閣、1971年、165-175頁。
  23. ^ 桐生悠々矢内原忠雄は考察の対象外となっている。状況の叙述と分類の叙述が混同していて、類型論としては分かりにくい。マルクス主義者の転向や生産力論が抵抗とはいかにも苦しい。降旗節雄「解説――戦時下の抵抗と自立」降旗節雄編『戦時下における抵抗と自立――創造的戦後への始動』社会評論社、1989年、270-290頁。
  24. ^ 国内の革命独裁への批判と海外への進出の批判を区別するのは新しい観点である。長谷川如是閑は抵抗ではなく、批判に分類されるべきではないかの批判はある。青木育志『河合栄治郎の社会思想体系』春風社、2011年、219-220頁。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ファシズム批判」の関連用語

ファシズム批判のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ファシズム批判のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのファシズム批判 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS