ダカール・ラリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/09 14:00 UTC 版)
日本との関係
日本からは個人での参加、企業での参加、それぞれ様々なものがある。企業は二輪・バギーはヤマハとホンダ、四輪はトヨタ、日産、三菱、日野、いすゞの各社が健闘してきた歴史がある。
二輪部門ではかつてはヤマハ、ホンダ、スズキがワークス・チームを編成する形で参戦していた。ヤマハはフランスの輸入代理店、ソノート社 (Sonauto) でジャン=クロード・オリビエが計画の中心となり、ホンダはフランス支社(フランス・ホンダ)が運営を担当した。
第1回(1979年)と第2回(1980年)はヤマハ・XT500、第4回(1982年)はホンダ・XL550R改に乗るライダーが優勝した[31]。その後、ホンダは打倒BMWを目指してホンダ・レーシング (HRC) 製VツインマシンNXR750を投入し、1986年から1989年まで4連覇を達成[32]。ヤマハは「テネレ」→「スーパーテネレ」シリーズの継続開発が実り、1990年代に7勝を記録[33]。オリビエに見いだされたステファン・ペテランセルがモト部門個人最多の6勝を挙げた。その後、各メーカーともワークス参戦を見送る時期が続いていたが、2013年からホンダがCRF450で、2015年からヤマハがWR450Fでワークス参戦を再開させた。
2009年に創設されたクアッド部門では、ヤマハ・ラプターが部門創設から2022年現在まで無傷の14連覇を達成。さらにヤマハは2021年から、AUTO部門でMiniをオペレーションするX-raidと提携し、Light Weight Prototype部門にYXZ1000Rを参戦させ、一時は三部門を股にかけた。しかし二輪のワークス参戦は2022年を最後に撤退した。
4輪部門の改造車クラスでは三菱・パジェロの活躍が目覚ましく、1985年に三菱のワークスチームが1・2位を独占、日本車としては初めてとなる4輪部門での総合優勝を果たした。その後も2001年から2007年までの7連覇を含め、参戦メーカー中最多となる12回の総合優勝を飾り、「パジェロ=パリダカ」というブランドイメージを印象付け、三菱自動車を一躍、世界的な自動車メーカーへと押し上げた。舞台が南米大陸に移った2009年にはディーゼル車のレーシングランサーをデビューさせたが、リーマンショック後の景気悪化に伴い、大会終了後にラリー活動からの撤退を表明した[34]。日産は2003年にワークスの日産・ピックアップを投入し[35]、篠塚建次郎、アリ・バタネン、コリン・マクレーらビッグネームを迎え入れたが、4年以内に優勝するという計画を前倒しして2005年限りでワークス撤退を決めた[36]。2012年には南アフリカトヨタ (TSAM) がオート部門のT1に「TOYOTA GAZOO Racing South Africa」名義でハイラックスで参戦を開始し、2019年にトヨタのダカール初優勝を達成した[37]。
4輪部門の市販車無改造クラスで最も成功しているのはトヨタ車体のTLC(チームランドクルーザー)率いるランドクルーザーで、市販車無改造クラスで1996年の優勝を皮切りに1998 - 2003年“過去の戦績”. 2019年8月21日閲覧。、2005年 - 2011年[38]にかけて6連覇を2度、2014年から2019年まで6連覇を達成している。ちなみに2012年と2013年にTLCの優勝を阻止したのは、スペイントヨタの運用するランドクルーザープラドであった[39][40]。
この他にも4輪部門には、様々な日本のSUVが国内外のプライベーターの車両として選ばれ参加した。例えばトヨタ・ランドクルーザーや日産・サファリ、三菱・パジェロといった世界的に人気の高いSUVの他にも、トヨタ・ハイラックスサーフ、三菱・チャレンジャー、日産・テラノ、いすゞ・ビッグホーン、いすゞ・ミュー、スズキ・エスクード、スズキ・ジムニーなどがダカール・ラリーを走り、他にも初期の大会には、構造上砂漠で不利なトヨタ・スターレットやトヨタ・カリーナといった二輪駆動の乗用車で市販車無改造クラスにエントリーした強者もおり、1982年には二輪駆動のカリーナ1500で久保田勝/内田正洋組が市販車無改造クラス優勝を果たしている。またプロトタイプ(実際に市販されていない競技専用車両)でも、テラノのシャシーに日産・パルサーGTi-R風のボディーを被せたものや、パジェロを国産初の四輪駆動車・PX33風に改造した車両、S2000やアキュラのホンダエンジンを搭載した「ホンダ・バギー」と呼ばれるものもあった[41]。
カミオン部門では日野自動車が菅原義正親子のチームスガワラとジョイントしてレンジャーで2019年現在まで参戦しており、27回連続完走と10 L未満部門クラス10連覇、1997年には部門総合1-2-3フィニッシュを達成。またサポートカミオンとしてスーパードルフィン・プロフィア(2013年まで)→700シリーズZS(プロフィアの海外仕様、2014年から)も参戦している。過去には三菱ふそうが1997年にはザ・グレートで、1998年には純粋な競技車輌ではなくサポートカミオンとしてではあるが、スーパーグレートで参戦したことがある。
なお、日本の自動車メーカー各社では販売網やその末端の士気向上を目的に、全国各地の系列ディーラーのメカニックが参加するグループ内部の技術コンテストなどの成績優秀者などを選抜して、実際にラリーに参戦するチームのメカニックに起用することも多く行われている。
出場した日本人
ダカール・ラリー日本事務所の公式サイトには、2014年までの日本人参加者名および結果のリストが掲載されている[42]。
第3回(1981年)、プライベーターのチームACP[43] (Adventurous Creative Persons) が日本人として初めてパリダカに挑戦し、無謀と思われた市販車無改造2WDクラスのトヨタ・スターレットで時間外ながら完走を果たした[44]。それから数年で出場者が増えてゆき、その後はほぼ毎年10人以上の日本人が出場している。1980年代末 - 1990年代初頭にかけてはパリダカの知名度上昇とバブル景気が重なり、50人以上のプライベーターが参加したこともあった。当時は世間で名の知れたタレントや文化人の出場もマスコミの話題となった。ワークスドライバーでは三菱の篠塚建次郎(1997年)と増岡浩(2002・2003年)が4輪総合優勝を果たした。
4輪(カミオン含む)
- 横田紀一郎 - チームACP代表。TV番組の取材などでアフリカの道に親しみ、日本勢のパリダカ参戦のきっかけを作る。1981年に久保田車のナビゲーターとして初参戦し、1989年まで9年連続出場。1990年・1992年はドライバーとして出場。
- 久保田勝 - 1981年にACPのドライバーとして初参戦し、翌1982年には市販車無改造・二輪駆動・バギー・マラソンの4クラス(現在は廃止)において日本人として初優勝する。1992年まで11年連続で参戦。
- 根本純 - 自動車ジャーナリスト。1981年にACPのドライバーとして初参戦。1982年・1985年・1988年 - 1997年に参戦。
- 菅原義正 - チーム「子連れ狼」を組織し、1983年から2019年まで参戦。日本人で唯一、モト・オート・カミオンの全部門に参戦。本田技研工業→三菱自動車→日野自動車。2008年1月、ギネス・ワールド・レコーズにダカール・ラリーの最多連続出場(25回)記録保持者として認定された。2019年には記録を36回にまで伸ばした後、引退を発表。
- 夏木陽介 - 俳優。1985年と1986年にドライバーとして、1987年 - 1993年に「チームシチズン夏木」の監督として参戦。
- 篠塚建次郎 - 三菱自動車→日産自動車→フリー(トーヨータイヤ開発ドライバー)。1986年から参戦、1997年に総合優勝[45]。
- 増岡浩 - 三菱自動車。1987年からダカール・ラリーに参戦。2002年・2003年に総合優勝[46][47]。
- 石原孝仁 - テレビディレクター。1987年にフジテレビのバラエティー番組のスポンサードを受けた「なるほど!ザ・ワールド号」のドライバーとして出場。市販車改造ディーゼルクラスで優勝した。
- 片山敬済 - 元ロードレース世界選手権チャンピオン。1990年に三菱パジェロ改のPX33で完走。1991年に日産パルサーベースのオリジナルマシンで出場するもリタイヤ。
- 佐々木隆[要曖昧さ回避] - 元モトクロス国際A級ライダー。1989年は二輪で出場するもリタイア、1990年は完走、クラス3位。1991年は四輪で参戦、総合58位。
- 立松和平 - 作家。ナビゲーターとして2回出場し、1990年はリタイア、1991年に完走。
- 岡本佳織 - 女優、タレント。トヨタ・フランスよりドライバーとして1991年参戦。1992年完走などの結果を残す。
- 新井敏弘 - ラリードライバー。いすゞ自動車、1997年参戦、総合32位完走[48][45]。
- 尾上茂 - ラリードライバー。プライベーターとして1997年より9回[49]参戦、3回完走。2000年 87位[50]・2003年 45位[47](SUZUKIエスクード)、2004年 45位[51] (SUZUKI VITARA)。
- 池町佳生 - 二輪部門1997年総合16位、2000年総合10位(2輪部門 日本人過去最上位)→2004年 四輪部門、日産自動車→トヨタ車体。
- 三橋淳 - 2001,2002,2003年 二輪部門→2004年 四輪部門、日産自動車→トヨタ車体[52]。市販車部門で4連覇を挙げている。
- 片山右京 - 元F1ドライバー。フリーランスとして2007、2008、2009年参戦。
- 山田周生 - 2007年 TLC(トヨタ車体チーム)のドライバーとして参戦。バイオディーゼル燃料(BDF)を使用し、市販車ディーゼル部門3位。
- 菅原照仁 - 父・菅原義正のチームである日野チームスガワラでナビやチームメカニック、サポートカミオンで経験を積み、2005年からドライバーとして参戦。2010 - 2019年のカミオン部門10L未満クラスで10連覇を達成した。
- 三浦昂 - トヨタ車体の社員。TLC(チームランドクルーザー)に2007年から2016年まで三橋淳とニコラ・ジボンのナビとして参戦し、2度の市販車部門優勝。2017年からはドライバーに転向し、2018年にクラス優勝を達成した。ナビ・ドライバーの双方で部門優勝を達成したのはTLC史上三浦が初めてである。
- 寺田昌弘 - 1997年四輪初参戦。1998年T2-2クラス優勝。2008、2009年は片山右京のナビとして参戦。2011、2012年TLCのドライバーとして参戦。
- 塙郁夫 - 2020年にチームスガワラ2号車のドライバーとして日野・600で参戦[53]。
- 梅田真佑 - 本業は医者で、ツーリングカーを中心に活動しているジェントルマンドライバー。2022年からSSV部門における初の日本人ドライバーとして、ポラリスのファクトリーチームから参戦している。
2輪
- 山田周生 - モータースポーツ・ジャーナリスト及びカメラマン。パリ・ダカール・ラリーでは初期の頃から取材活動を続けている。日本に紹介されるこのラリーの画像のほとんどは彼の撮影によるものである。パリ・ダカール・ラリーでは2輪、4輪で完走経験あり。
- 風間深志 - 冒険家。1982年に参戦し(日本人として賀曽利隆と共に初)、完走(クラス6位で総合18位[54])。2004年にも再挑戦するも、リタイア。
- 賀曽利隆 - 冒険家。ジャーナリスト。1982年に風間深志とともに参戦し(日本人として風間深志と共に初)、事故でリタイア。
- 柴田哲孝 - 作家・評論家。1986年・1988年に「チーム・シンバ」として参戦。
- 打田稔 - ジャーナリスト。1986年に取材。
- 山村レイコ - 1988年から合計5回参戦。1997年は2輪総合57位[45](女性クラス優勝)、夫の山村雅康と共に完走したことで敢闘賞も受賞。1998年は夫婦で四輪部門にいすゞ・ビッグホーンで参戦し完走。
- 渡辺明 - 元モトクロス世界選手権チャンピオン。1991年にスズキ準ワークスのガストン・ライエ・レーシングより参戦し、完走。
- 松井勉 - ジャーナリスト。1992年参加。
- 渡邊毅 - エンジニア。1992年参加。1997年には日本人プライベーター2輪チームのマネージャー兼メカニックとして参加した。
- 博田巌 - 高知県出身。ラリーレイド・モンゴルなどでの優勝経験あり。ダカール・ラリーでは、1998年 20位[55]、1999年 15位[56]。
- 柏秀樹 - ライディングスクール校長。ジャーナリスト。1996年、1997年(35位完走[45])、1998年、2006年(63位完走[57])の計4回参戦。
- 木下博信 - 埼玉県草加市の元市長。同市議会議員時代の2001年に参戦し、61位で完走した[58][59]。
- 田村聡 -2002年大会出場・聴覚障害の持病がある中ダカールラリーに参戦。
- 堀田修 - 2002年・2004年・2006年に参戦し完走した[46][51][57]。総合での上位入賞はないが、クラス別や部門別では常に上位成績を収める実力派。普通の会社員 (SE) でありながら有給休暇を利用して参戦した。エコエネルギー(新エネルギー)推進やフォトジャーナリストとしても活躍している。
- 桐島ローランド - 写真家。2007年に参戦し完走した[60]。
- 風間晋之介 - 風間深志の三男。2017年より「チーム風間」として参戦。
過去には大会期間中の死亡事故も起きている。1986年、二輪部門にプライベート出場していた金子靖雄がフランスのセッテでリエゾン区間を走行中、酒酔い運転の対向車と衝突して亡くなった[61]。
メディア
日本国内におけるテレビ放送は、かつてはテレビ朝日やNHK衛星第1テレビがダイジェストを大会中毎日放送し、一部のニュース番組のスポーツコーナー内でも取り上げられた。1987年には、フジテレビの番組「なるほど!ザ・ワールド」がチームACPのトヨタ・ランドクルーザー2台をスポンサードし、参戦の模様を3回にわたって放送した(このとき、出場した2台中の1台が市販車改造ディーゼルクラスでクラス優勝した)。現在、総集編がテレビ東京系列で放送されるほか、J SPORTSが大会期間中にダイジェストを、終了後に総集編を放送している。
テレビ朝日のダイジェスト番組では毎年タイアップのイメージソングが使用された。
- 1991年 浜田麻里「Nostalgia」
- 1992年 川島だりあ「Don't Look Back」
- 1993年 MANISH「声にならないほどに愛しい」
- 1994年 松田樹利亜「FOREVER DREAM」
- 1995年 宇徳敬子「あなたは 私の ENERGY」
1986年5月には松竹富士配給のドキュメンタリー映画『PARIS-DAKAR 15,000 栄光への挑戦[62]』がロードショー公開された。原田真人・阪本善尚ら撮影班は同年の大会中チームACPの取材車でダカールまで帯同した。
1987年にはシンガーソングライターの松任谷由実が応援団長を務める「ユーミン・マリクレール号」が4輪部門に出場し、松任谷もアフリカを訪れた。松任谷のアルバム『ALARM à la mode』(1986年)にはパリダカをモチーフにした曲「ホライズンを追いかけて」が収録された。
販売促進への利用
- サーキット系レース以上に地域や企業のイベントで競技車両を展示したり、自動車メーカーの販売促進の一環として全国のメーカー系販売会社やショールームを選手が回って報告会を行うなどの取り組みが見られる。三菱自動車系で行った「報告会」は、篠塚建次郎が参戦して以来ほぼ毎年続けられ、2009年までは増岡浩の報告会が毎年2月 - 3月に開催されるのが恒例となっていた。2人が別行動の場合は参戦車種の関係で篠塚がパジェロを扱うギャラン店系販売会社、増岡がRVRやチャレンジャーを扱っていたカープラザ系販売会社を担当した。系列の区切りのない販売会社(山口三菱自動車販売徳山支店など)では、篠塚・増岡が揃って登場した。
- 1985年から1986年にかけて、日清・カップヌードルのテレビCM「ハングリアン民族」編ではパリ-ダカール・ラリーに挑む選手やマシンの映像が使用された。CMソングとして起用されたHOUND DOGの「ff (フォルティシモ)」や中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」は当時のヒットチャートを賑わす人気曲となった。
注釈
出典
- ^ a b 菅原 2009, p. 38.
- ^ a b c 菅原 2009, p. 39.
- ^ a b Carles 2007, p. 3.
- ^ “ダカール・ラリー | モータースポーツ | 三菱自動車のクルマづくり | MITSUBISHI MOTORS”. 三菱自動車工業株式会社. 2021年8月14日閲覧。
- ^ a b Carles 2007, 1986.
- ^ a b Carles 2007, 1982.
- ^ Racing on 418, p. 14, 三菱自動車にとってのパリダカ.
- ^ Carles 2007, 1985.
- ^ Racing on 418, p. 23, インタビュー 夏木陽介.
- ^ Racing on 418, p. 44, 三菱パリダカマイスター Part 1 篠塚建次郎.
- ^ a b Carles 2007, 1987.
- ^ Racing on 418, p. 58, 対峙したライバルたち.
- ^ Racing on 418, p. 59, 対峙したライバルたち.
- ^ Carles 2007, 1988.
- ^ Carles 2007, 1992.
- ^ 「ダカール・ラリー2008、全面中止」。2008年1月5日、スラッシュドット ジャパン。2008年1月5日閲覧。
- ^ “パリ・ダカ、サハラ砂漠を走らない? 主催者幹部が発言”. 朝日新聞. (2008年1月5日). オリジナルの2008年1月8日時点におけるアーカイブ。 2008年1月6日閲覧。
- ^ “パリダカの代わりに、中欧舞台の新ラリー4月開催”. 産経新聞. (2008年2月4日)[リンク切れ]
- ^ “パリ・ダカ、来年は南米での開催が決定”. 日刊スポーツ. (2008年2月12日) 2011年2月16日閲覧。
- ^ “三菱自動車、ダカールラリーのワークス活動終了について” (プレスリリース), 三菱自動車工業株式会社, (2009年2月4日) 2020年2月2日閲覧。
- ^ “大会前に爆発事故発生のダカール・ラリー、仏外務大臣は中止の可能性を示唆。主催者側は「安全第一で競技を優先」と否定”. jp.motorsport.com (2022年1月8日). 2023年1月17日閲覧。
- ^ WHY AUDI’S DAKAR POWER INCREASE ISN’T CONTROVERSIAL
- ^ / APPENDIX J – ARTICLE 286
- ^ SSV: CAN-AM AT THE HELM
- ^ 2023 ANNEXE J / APPENDIX J – ARTICLE 286A
- ^ KTM PULLS OUT OF PARIS-DAKAR: The New 450cc Rules Makes All Of KTM’s Exotic Rally Bikes Illegal; KTM Will Race Other Rally’s, Just Not Dakar
- ^ 三菱、史上初のトップ4独占 篠塚建次郎、日本人初のパリダカ総合優勝
- ^ 変化の見えはじめたパリダカ ニューヒロインの誕生をもたらした三菱
- ^ 前回大会の雪辱を遂げ、増岡 浩が完全優勝
- ^ 菅原 2009, p. 40.
- ^ 斬新なデザインと数々の装備を備えたランドスポーツ車「ホンダ XL250Rパリ・ダカール」を発売 - 本田技研工業。
- ^ 1981-1989 Honda パリ・ダカールラリー参戦記 - 本田技研工業。
- ^ オフロードマニア 第4節 もうひとつの記号“テネレ” - ヤマハ発動機。
- ^ “ラリー界に激震!三菱がパリダカから撤退”. 日刊スポーツ. (2009年2月5日) 2017年12月21日閲覧。
- ^ “日産自動車 ワークス体制で2003年ダカールラリーに参戦”. NISMO (2002年10月4日). 2017年12月21日閲覧。
- ^ “日産、ダカール・ラリーのワークス活動を1年前倒しで休止”. webCG (二玄社). (2005年3月4日) 2017年12月21日閲覧。
- ^ “ダカールラリー:2019年大会でトヨタが初の総合優勝。ハイラックス駆るアル-アティヤが通算3勝目”. オートスポーツWeb. (2019年1月18日) 2019年1月18日閲覧。
- ^ “ラリーレポート”. 2019年8月21日閲覧。
- ^ “REPORT-STAGE14”. 2019年1月19日閲覧。
- ^ “ラリーレポート”. 2019年1月19日閲覧。
- ^ Honda Buggy neemt opnieuw deel aan Parijs – Dakar
- ^ “日本人の歴代出場者”. パリダカ日本事務局. 2020年7月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年3月10日閲覧。
- ^ “二十一世紀に夢を:::冒険的趣向集団 Team ACP:::”. 2017年12月19日閲覧。
- ^ “ダカールラリー 取材同行の旅No.3”. GAZOO.com (2016年). 2017年12月19日閲覧。
- ^ a b c d ASO 2019, 1997.
- ^ a b ASO 2019, 2002.
- ^ a b ASO 2019, 2003.
- ^ “プロフィール”. 2021年10月11日閲覧。
- ^ “これぞ男の夢! 著名なジムニーフリークが建てた「尾上茂のジムニー歴史館・JIMNY MUSEUM ONOUE SHIGERU」 | トヨタ自動車のクルマ情報サイト‐GAZOO”. 2021年10月11日閲覧。
- ^ ASO 2019, 2000.
- ^ a b ASO 2019, 2004.
- ^ “jun38c.com”. 2012年3月10日閲覧。
- ^ “"日野チームスガワラ"、さらなる高みを目指した新チーム体制を発表” (プレスリリース), 日野自動車, (2019年6月3日) 2020年1月7日閲覧。
- ^ ASO 2019, 1982.
- ^ ASO 2019, 1998.
- ^ ASO 2019, 1999.
- ^ a b ASO 2019, 2006.
- ^ ASO 2019, 2001.
- ^ “木下博信 プロフィール”. 2021年10月11日閲覧。
- ^ ASO 2019, 2007.
- ^ 原田真人 『砂漠のレーサーたち パリ・ダカール最前線』早川書房、1986年、75頁。ISBN 4152033215。
- ^ “PARIS-DAKAR 15,000 栄光への挑戦”. Movie Walker. 2017年12月19日閲覧。。
固有名詞の分類
- ダカール・ラリーのページへのリンク