エドワード・G・サイデンステッカー エドワード・G・サイデンステッカーの概要

エドワード・G・サイデンステッカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 04:54 UTC 版)

エドワード・ジョージ・サイデンステッカー
2006年
人物情報
生誕 (1921-02-11) 1921年2月11日
アメリカ合衆国コロラド州
死没 2007年8月26日(2007-08-26)(86歳)
日本東京都
出身校 コロラド大学コロンビア大学
学問
研究分野 日本学
研究機関 上智大学ミシガン大学コロンビア大学
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生涯

コロラド州デンバー近郊にあるキャッスルロック[1] の農家に生まれる。父方はドイツ系プロテスタント、母方はアイルランド系カトリックの出自。

コロラド大学経済学を専攻したが、中途で英文学専攻に変更。アメリカ海軍日本語学校日本語を学んだ後、第二次世界大戦に従軍。海兵隊師団の語学将校として硫黄島作戦に参加、没収した日本軍の書類の解読・翻訳にあたる[2]。ハワイを経て、戦後は佐世保に勤務[1]。闇市の取り締まりなど占領政策にかかわる勤務だった[2]。1946年、終戦処理の任務を終えて帰国[1]。帰米後、コロンビア大学公法及び行政学修士号を取得。テーマは「近衛文麿日記」だった[2]

外交官試験に合格して、1947年国務省外交局へ入り、イェール大学ハーヴァード大学に出向して日本語の訓練を重ねる。当時まだ日本にアメリカ大使館が存在しなかったため、連合軍最高司令長官付外交部局の一員として、1948年に再来日する[1]日本財閥の現状調査を1950年まで担当した[2]

1955年

1950年に退官すると[1]、5年間東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学を勉強した。その時の友人が直木賞作家の高橋治池田亀鑑の「源氏物語」の読書会にも参加、同会には歌人の五島美代子も参加していた[3]

卒業後は上智大学で教鞭をとりながら翻訳家として活躍した[1]

1958年、ソ連政府がボリス・パステルナークノーベル文学賞授与を辞退させた際の、日本ペンクラブのソ連政府寄りの姿勢を、1959年2月に[4]アイヴァン・モリスヨゼフ・ロゲンドルフとの3名で、批判するコメントを発表した[5][6]。日本人作家では平林たい子がそれに同調した[7]。また、来日してペンクラブの会合に出席することを予定していたアーサー・ケストラーは、日本ペンクラブの姿勢を批判して、訪日後の会合への出席をことわった[8]

1962年の帰国後、スタンフォード大学の教員となり、1964年から教授[2]1966年からミシガン大学極東言語・文学部教授[2]1977年コロンビア大学教授として日本文学を講じ、アンソニー・チェンバースのような後進を育てた。1986年からコロンビア大学名誉教授[2]。1991年、メリーランド大学名誉文学博士[2]

また、1950年代から谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫ら日本の文学作品を英訳し、結果的に3人をノーベル文学賞の選考過程の場に引きあげることに貢献[9]。さらにアーサー・ウェイリーに続く二度目の『源氏物語』の英語完訳も行った。

英訳された『雪国』などにより、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端は、日本語で書いた自作が世界で読まれ評価されたのは訳者であるサイデンステッカーの貢献が大きいとし、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と賞金を半分渡している。また、川端からストックホルムでの授賞式に一緒に行ってくれるよう頼まれ同伴している。2010年代以降に公開された1960年代のノーベル文学賞の選考資料では、サイデンステッカーは、同じく日本文学研究者であるドナルド・キーンとともに、選考委員から日本人文学者についての参考意見を求められていたことが明らかになっている[10]。キーンとは個人的にも親交が深く、東大在学中は彼を家に宿泊させており、コロンビア大学で、春学期はキーンが、秋学期はサイデンステッカーが教鞭を取っていたとされる。

2006年、日本への永住を決意して東京の湯島を生活の拠点とする。だが、翌2007年4月26日不忍池を散歩中に転倒して頭部を強打、そのまま意識を失って入院し、4カ月間の療養の甲斐もなく8月26日に死去した。86歳没。

受賞・栄典


  1. ^ a b c d e f g h i j 日外アソシエーツ現代人物情報
  2. ^ a b c d e f g h i j k 読売人物データベース
  3. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「私のニッポン日記」(講談社)P.57-58
  4. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「私のニッポン日記」(講談社)P.133
  5. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「日本との50年戦争―ひと・くに・ことば」(朝日新聞社)P.211
  6. ^ 大宅壮一「群像断裁」(文藝春秋新社)P.129
  7. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「日本との50年戦争―ひと・くに・ことば」(朝日新聞社)P.211-212
  8. ^ エドワード・G・サイデンステッカー「私のニッポン日記」(講談社)P.134
  9. ^ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった”. 日本経済新聞 (2014年1月3日). 2020年7月23日閲覧。
  10. ^ 大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞 -スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって- (PDF) - 『京都語文』No.21、仏教大学、2014年
  11. ^ 『立春』562号, p.202


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