イランの歴史 イランの歴史の概要

イランの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/05 13:21 UTC 版)

こうした中でさまざまな王朝が興亡を繰り返し、イラン高原のみを領域としたものもあれば、アッバース朝モンゴル帝国のような巨大な王朝もあった。

したがって「イランの歴史」を現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。

本項ではイラン高原を支配した諸勢力の歴史を中心に、その周辺域、特にマー・ワラー・アンナフルホラーサーン地方、アゼルバイジャン地方を含めた歴史的イラン世界の歴史を叙述する。

イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

先史時代

イラン高原には極めて古い時代から人類の活動があったことがわかっている。考古学的には約10万年前の旧石器時代中期以降の遺跡[1]が確認されている。

この地域における定住は約1万8千年前から約1万4千年前頃に始まったと考えられている。この時代の住人達は森林に覆われた山腹の洞窟などを主な住居とし、原始的な土器や剥片石器を用いていた。動物を用いた骨角器は石器に比べあまり見つかっていない。

イラン高原の気候の変化に伴って、こうした人々の居住地は移動し、やがて大規模な集落も形成されるようになった。この地域はを中心とした農耕が最も早く始まった地域の1つであるといわれている。紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。ザーグロス山中で発掘された紀元前5000年頃のワインの瓶(現在はペンシルベニア大学博物館で展示[2])が知られている他、最も初期の集住地の痕跡としてスィアールク遺跡が知られている。この遺跡からイランの先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっている。

スィアールク遺跡の最も初期の層から発見される住居の痕跡は、木の枝で作った粗末な小屋のようなものであったが、間もなく練土を用いた建物が建設されるようになった。製陶技術も発達し、彩文土器が用いられるようになった他、紡錘車も発見されており、イラン高原における目覚しい技術革新の跡が見られる。紀元前4千年紀には日干し煉瓦を用いた家が建設されるようになり、漆喰が塗られていたことがわかる。家の内部には赤い塗料などで装飾が施されていたこともわかっており、文様や動物の図柄を用いた質の良い彩文土器が見られるようになる。スィアールク遺跡から発見される煉瓦や土器は、イラン高原に暮らした人々の技術進歩の痕跡を極めて分かりやすく残している。このことはイラン高原において文化的な断絶が長期間無かった事を示すと思われる。しかし、彩文土器は技術的にはともかく、図案・造形的な面においては各地の遺跡で統一性が見られず、まとまった一つの政治世界としての姿はまだ曖昧であった。上記に述べたような特徴はイラン高原の中央部を中心とした地域においての話であり、スサを中心としたであろう南西部では、紀元前3千年紀には中央部と異なり、近隣のメソポタミア文明の影響を強く受けた文化が生まれた。この地域ではイラン高原の伝統的な彩文土器も使用されなくなった。現在のトルクメニスタン南部からイラン北東部、アフガニスタン北部にかけての地域では紀元前2千年紀前半に独自の都市文化が発達した。現在これはオクサス文明などと呼ばれている。その具体的な姿はまだわかっていないが、東部イランの歴史を考える上で大きな意味を持つ。また、極めて古い時代とあまり変わらない生活様式が長く続いていた地域もあったと言われている。

歴史時代の始まり

「イランほど研究すべき理由をもつ国は世界にも数少ない」(リチャード・ネルソン・フライ『ペルシアの黄金時代』)

明らかにメソポタミア地方の文化的影響を強く受けたイラン高原南西部の文化は、やがてイラン地域における最初の文明、エラムの成立を見た。エラム人は高度な国家機構を整え、イラン世界最初の文字記録を残した。紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。

エラム

イラン世界の歴史時代(文字記録のある時代)はエラム人の文明とともに始まる。エラムの人々は紀元前3千年紀から紀元前1千年紀半ばまでの間に、現在のイラン・イスラーム共和国フーゼスターンからファールス地方にかけての領域に幾多の国家を形成した。エラム人の話した言語は、一般にエラム語と呼ばれる系統不明の言語である。これは後にイラン世界で主流となるインド・ヨーロッパ系の言語とは異なり、その出自はわかっていない。

エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王の元で高度な政治的統一を見た。彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀アッシリアによって主要都市スサが破壊されると、列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配したハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって継承され、後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。

アーリア人の到来

グリフィンを描いた黄金の杯(イラン・ギーラーン州マルリク発掘。紀元前1千年紀前半。イラン国立博物館蔵)

紀元前2千年紀中央アジア南ロシアの草原地帯で遊牧民として生活し、インド・ヨーロッパ系の言語を用いていたアーリア人(アーリヤ人、アールヤ人)と自称し、或いは後世インド・イラン人と呼ばれるようになる人々が、イラン高原やインド亜大陸へと移動した。アーリア人達の移住ルートは主にコーカサス山脈の山道(コーカサス回廊)を超えるルート、中央アジアからソグディアナホラーサーンに入るルート、そしてアフガニスタン地方を経由してイラン高原に入るルート(カーフィルの道)の三つがあったと言われている。紀元前1千年紀の始め頃までにはイラン高原全域にアーリア系の人々が定着した。彼らはそれ以前の住民と異なり、切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオン山羊などをあしらった新しい彩文土器を用いた。こうしたアーリア人の到来によって齎されたと思われる変化はスィアールク遺跡などで発見されている。そしてこの時期にイラン高原は本格的な鉄器時代に入った。非アーリア系と思われる先住の人々(エラムインダス文明の中間のShahr-e Sukhtehで栄えたジーロフト文化英語版)は次第にアーリア人に同化して姿を消していった。ただし、紀元前10世紀頃にはアーザルバイジャーン地方に近いウルーミーエ湖周辺の地方には、非アーリア系と考えられるマンナエ人英語版)の王国が一時期勢力を持った。

アーリア人の歴史には紀元前9世紀頃から次第に光が当たり始める。彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人メディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始めるからである。この記録を残したのは、当時イラン高原西部に勢力を伸張させていたアッシリアであった。当時ペルシア人やメディア人は、まだ力が弱くしばしばアッシリアに貢納を収めていた。しかしメディア人達は次第に勢力を伸ばし、やがてイラン高原全域を支配する王国を作り上げた。これは慣用的にメディア王国と呼ばれ、オリエント世界を支配したアッシリアを滅ぼし、バビロニアエジプトに並ぶ古代の強国となった。その後、メディア王国は新たに興ったペルシア人のハカーマニシュ朝に飲み込まれるが、エラム人と並んでハカーマニシュ朝の支配機構の中に入り、ともに中央権力機構を構成する集団となってペルシア人と同化していった。

ペルシアとイラン

黄金のリュトン(動物頭状の杯)。ハカーマニシュ朝。エクバタナ出土。イラン国立博物館

やがて、後世この地域、及び住民を指すことになる言葉、即ちペルシアイランが歴史に登場した。

かつてエラム人の中心地のひとつであったアンシャン(現在のファールス地方)にはペルシア語パルスア、パールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族(ペルシア人)が定着した。このためアンシャンと呼ばれた地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。これは古典ギリシア語ではペルスィスと呼ばれ、ヨーロッパの諸言語で用いられるペルシアという言葉はこのペルスィスに由来するものである。この名は紀元前6世紀にこの地から興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来、歴史的にイラン高原に発した諸帝国と住民を指す名前ともなった。

イラン人自身はイラン高原に侵入するしばらく前に分かれた、インド亜大陸に侵入した同族と同様に、「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用いており、サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味のパルティア語アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。「イーラーン」は、イスラーム時代になってあらわれる、パフラヴィー語の「エーラーン」の近世ペルシア語形である。紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。1935年3月21日パフラヴィー朝レザー・シャーは諸外国に対し「イラン」の使用を要請した。その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた(詳細はイラン・ペルシア名辞論争を参照、またペルシアの地理についてはイランの地理を参照)。







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