トルコマーンと東方イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)
「イランの歴史」の記事における「トルコマーンと東方イスラーム世界」の解説
セルジューク朝のもと、政治・軍事をテュルク系などの遊牧民が担い、行政・文化をペルシア系の者が担う東方イスラーム世界が現出した。13世紀にはモンゴル帝国がイラン高原を征服しイルハン朝が成立する。この時代、遊牧民の機動力に基づく軍事的優位性は圧倒的であった。こうした勢力は権力中枢所在地に広大な牧草地を必要としており、この時代のイラン高原の歴史は、東方のホラーサーンやマー・ワラー・アンナフル、あるいは西方のアゼルバイジャンから東アナトリアに基盤を置く勢力による角逐の歴史であったといえる。イルハン朝崩壊後にはマーワーランナフルからティムールが大帝国を築く。その勢力が弱まると、西方の黒羊朝、白羊朝東方のティムール朝が対峙する状況となる。やがて16世紀への転換期にアゼルバイジャン方面からサファヴィー朝(1502年 - 1736年)がイラン高原を統一する。サファヴィー朝はシーア派を国教とし、ここにイランのシーア化がはじまる。中期のシャー・アッバース1世は都をイラン高原中央のエスファハーンに移し全盛の時代を迎える。サファヴィー朝崩壊後も遊牧系のナーディル・シャーのアフシャール朝、カリーム・ハーンのザンド朝がそれぞれ短期間イランを支配し、同じくトルコマーン系のガージャール朝(1795年 - 1925年)が成立する。遊牧勢力の優位性が揺らぐ中で、東方イスラーム世界もまたその変容を余儀なくされる。サファヴィー朝中期ころから、イラン世界は縮小をはじめ、マー・ワラー・アンナフルはトルキスタンとしてイラン世界から離れ、そしてドッラーニー朝以降ホラーサーンもまたアフガニスタンとイラン辺境部に二分される。さらに西方も東アナトリア・イラク方面もオスマン帝国との間に完全な国境線が敷かれ、ここに東方イスラーム世界は終焉を迎える。ガージャール朝はうち続く戦敗によってヘラートやカフカズを失い、今日ある姿での国民国家「イラン」の原像が立ち現れてくることになる。
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