じしゅう‐よう〔ジシウエウ〕【磁州窯】
磁州窯
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磁州窯(じじゅうがま)は、中国河北省磁州(現在の磁県)を中心に、華北一帯に広がった窯業地とその製品の総称。起源は唐代と言われ、焼き物全般の名称である「磁器」の語源ともされる。
『原色陶器大辞典』の「磁器」の項には、「漢字の磁器の語は瓷器の俗字で、明時代の随筆『五雑爼』には『今俗語に窯器を謂ひて磁器となすは蓋し河南磁州窯最も多く産するによりて相沿ひて之を名く』とある」と書かれている[1]。
最盛期は宋から金時代(10~12世紀頃)で、鉄分を含んだ灰色の素地に素地に白い土を掛け、その上に透明釉を掛けるいわゆる白化粧の陶磁器が特徴。さらに装飾技法として代表的なのが、白化粧した素地に黒泥を掛けた後、黒泥のみを掻き落として模様を描く「白黒掻落とし」である。
脚注
出典
磁州窯
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9世紀頃から、華北一帯の民窯では「磁州窯」と総称される独特の加飾陶器が製作されていた。特に北宋から金代の製品が名高い。磁州窯系の陶器は、陶質の胎土に白化粧を施し、透明釉を掛けたものを基本とする。器種は瓶が多く、磁州窯特有のものとしては陶製の枕がある。文様は各種あるが、牡丹唐草文が多い。定窯などの白磁は白い胎土に透明釉を掛けて高火度で焼き上げたものであるが、磁州窯系の陶器は、鉄分の多い灰色がかった胎土に白化粧をした上に透明釉を掛けた代用白磁であった。この種のやきものは9世紀頃から作られていたが、北宋時代に入ると、灰色の胎土を逆に生かし、白化粧土の一部を削り取って文様を表した「掻落」(かきおとし)という技法が行われるようになった。この技法はさらに進化して「白地黒掻落」という技法が生まれた。これは、白化粧土の上にさらに黒土を掛け、その黒土を部分的に削り取って白地を露出し、白と黒のコントラストで文様を表すものである。その他、線刻、象嵌、鉄絵、緑釉掻落、三彩など、さまざまな加飾技法が行われた。線刻は、原理的には掻落と同様の技法で、白化粧土を線彫りして、下の胎土を現すことによって文様を表すもの。象嵌は、胎土に線刻で文様を表し、その上から白化粧土を全面に掛け、文様のある部分のみ白土を掻き取るという手の込んだ技法によるものである。すなわち、表面を掻き取った後、線刻された凹部に残った白土が文様を形成するもので、この種の作例はあまり多くない。鉄絵は白化粧土の上に鉄絵具で直接文様を描き、透明釉を掛けて焼成するもので、外観は白地黒掻落と似るが、より簡便化された技法である。緑釉掻落は、掻落の器にさらに緑釉を掛けたものである。白地掻落の器の全面に緑釉を掛けたもの、白地黒掻落の器の白地部分のみに緑釉を掛けて、黒と緑のコントラストを表したものなどがあり、掻落でなく、白地鉄絵の器に緑釉を掛けるものもある。以上のほか、白化粧土を掛けたのみで、それ以外の加飾を行わない、「白無地」の器も多数存在する。金時代に入ると、白地黒掻落に似るが、黒土ではなく黒釉を掛けてこれを掻き落とした黒漆掻落や、黒釉の上に白土で線を描いた黒釉堆線文などの技法も用いられている。ただし、これらは白化粧土を用いない点から、「磁州窯系」の範疇ではないとする立場もある。狭義の磁州窯とは、河北省磁県所在の窯のことだが、上述のような各種技法を用いた陶器は、華北の非常に広い地域の窯で製作されていた。磁州窯系の窯は山東、江蘇、安徽、河北、河南、山西の各省にまたがって散在している。磁州窯の名のもとになった磁県は河北省にあるが、磁州窯系の窯がもっとも集中しているのは河南省である。磁州窯系の窯は元、明、清、そして現代まで焼造を続けている。 金時代には、磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られた。上絵付けとは、透明釉を掛けて高火度で焼いたやきものの釉上に顔料で図柄を描き、再度低火度で焼き付ける技法で、顔料は器面に焼き付けられているため、剥落しない。明代に発展する五彩と基本的には同じ技法であるが、この時代の五彩(日本では「宋赤絵」という)は小型の碗や壺などの小品が主で、図柄も民窯ならではの素朴なものであった。顔料は、緑と褐色は従来の三彩の釉を応用し、赤色だけは新たに鉛ガラスと鉄を調合して作った。
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