ギヨーム事件
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そしてブラントを首相辞任に追いやったのが、個人秘書であったギュンター・ギヨームであった。ギヨームは1956年に東ドイツから西ベルリンに難民として入り、フランクフルトで職を得て、そしてフランクフルトの社会民主党党員となり、党書記となり、党議員団事務局長となった。ゲオルク・レーバー交通相の選挙対策事務局長として高い評価を得て、1970年1月から連邦首相府の職員となり、1972年秋から首相の個人事務所の職員となった。 1973年の年初に、当時内務省公安局が15年前から傍受し解明した無線通信がギョームに関わっていることを突き止め、ギヨーム夫妻は東ドイツ国家保安省が潜入させていたスパイであるとの確証を持った。しかし、公安局長から憲法擁護庁長官に就任したギュンター・ノラウ(ドイツ語版)は5月29日に当時のゲンシャー内相に伝えたが証拠となるものがなく逮捕の決め手がなかったので、なおしばらく様子を見ることとして公安局の監視下に置かれた。 ギヨームが監視下に置かれたことは、翌日ブラントにゲンシャー内相から伝えられたが、ブラントは深刻には受け止めなかった。なぜなら東ドイツから難民として西ドイツへ移ってきた人々に対しては、「しばしば浮上する疑いの要素」であることをブラントも理解しており、無視することにしたからであった。 そしてほぼ1年が過ぎた1974年3月初めにこの関係資料が連邦検察官に渡り捜査を続けている中で、4月24日にボンの自宅を捜査官が訪れてギヨームと妻クリステルは逮捕された。この時にギヨームは捜査官に対し「私は東ドイツの国家人民軍将校で、国家保安省の職員でもある。将校としての私の名誉が尊重されることを望む」と語った。 ブラントにとっては手痛い打撃であった。しかし当時東ドイツ国家保安省次官でシュタージの対外諜報部門の長を30年以上務めたマルクス・ヴォルフはドイツ再統一後に「ギヨームを西ドイツ首相の間近に置いたことなどは東ドイツ秘密警察の行動計画の結果ではなかった。一国のトップの人物近くに疑念の濃厚な人物など留め置いたことなど決してない」と述べている。
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