VI-100からPe-2へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 07:19 UTC 版)
「Pe-2 (航空機)」の記事における「VI-100からPe-2へ」の解説
金属製主翼の設計を担当していただけあって、V・M・ペトリャコーフの応力外皮構造の設計は複雑ではあったが、優秀であった。双発の水冷式エンジンは綺麗にカバー内に収められて、ソ連流である主翼内に冷却水ラジエターを設ける構造だった。さらに、このラジエターの冷却空気は主翼前縁からダクトを通って、主翼上面のシャッターの隙間から排出され、出力を増す事を意図していた。エンジンには過給機、可変プロペラを装備した。機内装置の全ては電気化され、これはアメリカの影響を受けたものだといわれている。 1939年、VI-100の試作機の一号機が初飛行を記録。高度10,000mで時速630kmを記録する。しかし、三座型の爆撃機仕様を量産に移すように命令が下る。理由は定かでないが、これは仮想敵国の中に高高度爆撃機を持ち合わせている国が無く、高高度戦闘機の開発が必要ないと判断されたためだといわれている。三座型の爆撃機型、PB-100は1940年に認可され、試作機が製造された。VI-100との違いはダイブブレーキ(急降下速度を減速させる)の追加、機体構造や主翼の形状変更など、多岐にわたる。過給機も取り外されてしまった。これが実戦に送り出され、1941年から始まった量産型は設計者であるV・M・ペトリャコーフを敬してPe-2と改称された。
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