The Fireflyと初期オペレッタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/30 16:31 UTC 版)
「ルドルフ・フリムル」の記事における「The Fireflyと初期オペレッタ」の解説
20世紀はじめの数十年の間、アメリカの劇場で最も人気を博した演目はオペレッタであり、最大の知名度を誇ったのはアイルランド生まれのヴィクター・ハーバートであった。1912年、オペレッタの歌姫エマ・トレンティーニがブロードウェイで新作オペレッタの主役を務めると報じられた。作品はハーバートと作詞家のオットー・ハーバックによる『The Firefly』であった。このオペレッタが書かれる直前、トレンティーニはハーバート自身の指揮による彼のオペレッタ『Naughty Marietta』の特別公演に出演した。アンコールでトレンティーニが「Italian Street Song」を歌うことを拒否すると、ハーバートは血相を変えてオーケストラ・ピットを飛び出し、トレンティーニへのそれ以上の作品提供を拒絶してしまった。 そのオペラのスポンサーであったアーサー・ハマースタインは慌てて他の作曲家を探しはじめた。ハーバートほどの曲を書ける劇場作曲家を見つけることはできず、ハマースタインはクラシック音楽の教育を受けているという理由でほとんど無名だったフリムルに白羽の矢を立てた。フリムルがひと月かけて作り上げた作品は、彼を劇場での初めての成功に導くことになる。シラキュースでの試験興行を経て1912年12月2日に封切られた『The Firefly』は、聴衆と批評家の双方から好意的に受け止められた。クリスマスが終わると舞台はカジノ劇場(英語版)へと移され、そこで1913年3月15日の千秋楽まで合計120回の公演を重ねた。フリムルは『The Firefly』に続いてオペレッタを3作品書き上げ、いずれも上演記録の上では『The Firefly』より長期間となりはしたものの、その後の評判では及ばなかった。3作品とは『High Jinks』(1913年、)『Katinka』(1915年)、『You're in Love』(1917年)である。また、フリムルは1915年のミュージカル『The Peasant Girl』へ歌曲を提供している。 トレンティーニはフリムルの最初の妻が1915年に起こした離婚訴訟において共同被告人として告訴されており、2人が不貞関係にあるとする証拠が提示されている。ライダ・ジョンソン・ヤングとの共作でエド・ウィンとメイ・ウエストを主役に据えた『Sometime』は、1918年から1919年にかけてブロードウェイで上演されて好評を博した。
※この「The Fireflyと初期オペレッタ」の解説は、「ルドルフ・フリムル」の解説の一部です。
「The Fireflyと初期オペレッタ」を含む「ルドルフ・フリムル」の記事については、「ルドルフ・フリムル」の概要を参照ください。
- The Fireflyと初期オペレッタのページへのリンク