スタンリー (Stanley, William)
スタンリーという人は
父親からは法律家を期待されてエール大学へ入学するが、機械や科学への道を志したスタンリーは数ヶ月で大学をやめニューヨークへ行く。ハイラム・マキシムのもとでアーク灯、白熱電球の発明、製造をすることになる。 1882年、ボストンのスワン電気会社に勤めるが一年で独立し、ニュージャージーに自分の研究所を持つ。 1884年、ウェスチングハウスに招かれ、ウェスチングハウスの資金で発明ができるようになる。
スタンリーの主な経歴
1886年、交流システムを開発する。 当時変圧器といったらゴーラールとギッブスの変圧器であったが、これには改良の余地があった。 イギリスではフェランティが、ここアメリカではスタンリーが変圧器を改良していく。 スタンリーは変圧器、交流システムの開発をしたかったのだが、雇われ発明家のスタンリーにとってウェスチングハウスの説得は困難を極めた。 ウェスチングハウス社の電気企業総支配人の助けがあり、 1885年12月24日、ウェスチングハウスとの新たな契約によってマサチューセッツのグレート・バーリントンに経費はウェスチングハウス持ちの研究所を持 てるようになる。
1886年3月6日、グレート・バーリントンは電化されてしまった。 スタンリーが来て数ヶ月である。助手は一人である。 街路樹に絶縁体で導線を支持し、発電所である研究所から村の中心までの4000フィートを送電し、 需要家として13の店、2つの医院、1つの床屋、電話交換局、郵便局が接続されスタンリーの電球が灯った。 発電機出力電圧は500Vであり、これを3000Vに昇圧し、村の中心で500Vに降圧して需要家へ配電した。
この交流変圧器、交流発電、送電、配電のシステムは疑いようがなくアメリカ最初のもので、これはウェスチングハウスに報告された。 この変圧器はウェスチングハウスの変圧器として特許をとり、その販売はめざましく、交流システム発展の原動力となった。
固有名詞の分類
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