サルディス
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サルディスのギュムナシオン
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サルディスまたはサルデス(リュディア語:Sfard ;古代ギリシア語: Σάρδεις Sardeis ;ペルシア語: سارد Sārd、英語: Sardis)は、現在のトルコ共和国マニサ県サルトにかつてあった古代の都市である。
概要
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サルディスは、古代リュディアの首都で、ペルシア帝国の主要な都市の一つである。ローマ帝国の下ではプロコンスルの総督府があり、末期ローマや東ローマ帝国時代のリュディア属州の最大都市でもあった。サルディスのキリスト教会は、『ヨハネの黙示録』の中で書簡の宛名となるアジアの七教会の一つである。
サルディスの重要性は、第一にその軍事力、第二に内陸からエーゲ海沿岸に通じる重要な街道の途上に位置するということ、第三にヘルムス川(ゲディズ川)流域の広大で肥沃な平野を支配できるということに帰せられる。
地理
サルディスは、ヘルムス渓谷の中流に位置し、トモロス山(ボズ山)の山裾の険しく高い尾根にアクロポリスが形作られている。ヘルムス川からは約4kmほど南である。今日、サルディスの遺跡は、トルコ共和国マニサ県サリフリの近く、アンカラ・イズミル間を結ぶ高速道路に接する(イズミルから約72km)、現代のサルトという村にある。公衆浴場とギュムナシオンの複合施設、シナゴーグや東ローマ時代の商店など、遺構の一部分が年間を通じて訪問者に開放されている。
歴史
サルディスに対する最古の言及は、アイスキュロスの『ペルシア人』(紀元前472年)に見出される。『イーリアス』では、マイオニア人(すなわちリュディア人)酋長の都市がHydeという名で呼ばれているようだが、後の時代にそれがサルディスまたはそのアクロポリスの古名とされた。しかしながら、サルディスはマイオニア人の当初からの都ではなかった可能性が高いが、紀元前8世紀に強大なリュディア王国を出現させた変化の中心となったことは確かだろう。
サルディスは、紀元前7世紀にキンメリア人、紀元前6世紀にペルシア人とイオニア人、紀元前3世紀末にはアンティオコス3世によって、占領の憂き目を見た。キュロス2世によって征服された後のペルシア支配の時代には、サルディスはペルシア帝国の都ペルセポリスに発する王の道の終着地となった。イオニアの反乱では、サルディスはイオニア人によって焼き払われた。サルディスは、紀元前334年のアレクサンドロス3世の遠征まで、ペルシア支配の下にあり続けた。
少なくとも一度、ティベリウス帝治世の17年、サルディスは地震によって破壊されたが、その都度再建された。東ローマ帝国末期に至るまで、サルディスは小アジア西部の大都市の一つであり続けた。
リュディア王国の初期には工芸が大いに発展し、サルディスはその製作の中心地となった。特に、繊細な毛織物や敷物の製作と染色が重要だった。古代には、市場を貫くようにして「金の砂を運ぶ」パクトロス川が流れていた。実際にトモロス山では砂金を産し、後々まで貿易と商業によって巨万の富が生み出された。コンスタンティノポリスが東ローマの都になると、属州と首都を結びつける新たな交通網が発達した。サルディスはこの交通網から離れていたため、その重要性をいくらか減らすこととなった。しかしながら、サルディスは依然として栄誉を誇り、295年にはリュディア属州の首都大司教座となった。10世紀にコンスタンティノス7世が設定したトゥラケシオン管区(en)の都市としては、エフェソスとスミュルナ(イズミル)に次ぐ三番目に挙げられている。しかし、その後400年の間、サルディスはその地域の重要都市であるマグネシア(マニサ)やフィラデルフィア(アラシェヒル)に脅かされた。
1071年以降、ヘルムス渓谷はセルジューク朝の侵入に苦しむようになったが、1118年にはフィロカレス将軍の活躍によりこの地域は取り戻され、コムネノス王朝による東ローマの中興とルーム・セルジューク朝の衰退によって、サルディスは東ローマ領に留まった。1204年、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させ、サルディスはニカイア帝国の支配下に入った。1261年、ニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪回すると小アジア全体への支配がおろそかとなり、結局それらはムスリムの戦士集団であるガーズィー(en)のアミールたちに奪われ、1306年に結ばれた条約でカイステル川(クチュク・メンデレス川)の渓谷とサルディスの砦は彼らに引き渡された。サルディスは、1402年にティムールの軍勢によって占領(そしておそらく破壊)されるまで、衰退しながらも存続した。
考古学的調査
19世紀にはサルディスは遺跡となっており、主にローマ時代の建築物が地表に現れていた。最初の考古学者による調査は、1910年から1914年の間にプリンストン大学の調査班によって行われ、アルテミス神殿や1000以上のリュディア人の墓が発掘された。発掘調査は、第一次世界大戦とトルコ革命のために中止された。ハワード・クロスビー・バトラーによって発掘された遺物のいくつかは、ニューヨークのメトロポリタン美術館の収蔵品に加えられた。
現在、ウィスコンシン大学マディソン校のニック・カーヒル教授の下で発掘が行われている。[要出典]トルコの考古学調査管理法によって、考古学的な遺物のトルコ外への持ち出しは禁じられている。ローマ末期のモザイクや彫刻、紀元前6世紀中頃の兜、様々な時代の陶器など、いくつかの重要な発見物がマニサ考古学博物館に収められている。
サルディスのシナゴーグ
1958年以来、サルディスでは毎年ハーバード大学とコーネル大学が後援する考古学調査が行われている。これらの調査によって、これまで知られている遺跡の中ではおそらく最も印象的なディアスポラのシナゴーグが発掘され、モザイクによる多くの床だけでなく、80以上のギリシア語の碑文や7つのヘブライ語の碑文が出土した(このような碑文は、シリアのドゥラ・エウロポスにあるシナゴーグの遺跡にも見られる)。サルディスのシナゴーグの発見によって、ローマ帝国末期のユダヤ教についての以前までの仮説が覆された。アフロディシアスでの「神を畏れる者」(en:godfearers)の碑文の発見とともに、ユダヤ教徒がキリスト教徒によって日向から追いやられたと以前には多くの学者が想定していた時期の、ユダヤ人のローマ市民生活への適応や集団の大きさや重要性、小アジアのユダヤ人社会の継続的な活力への疑う余地もない証明となった。[要出典]
このシナゴーグは、公衆浴場とギュムナシオンの複合施設の敷地の一部であり、その施設は450から500年間使われていた。その初期である2世紀の中頃には、シナゴーグがあった場所は着替えや休憩に使われていた。この複合施設は、616年にサーサーン朝によって破壊された。[要出典]
外部リンク
- サルディスにおける考古学調査(ハーバード大学美術館)
- サルディスの調査(サルディスにおける考古学調査の歴史、Harvard Magazine)
- Sardis(ニューヨーク・メトロポリタン美術館)
- Sardis Turkey(遺跡の写真)
- The Princeton Encyclopedia of Classical Sites - Sardis(プリンストン遺跡百科事典)
- Livius.org: Sardes(写真)
参考文献
- Sardis from Prehistoric to Roman Times: Results of the Archaeological Exploration of Sardis 1958-1975, George M. A. Hanfmann et al., ISBN 0-674-78925-3, Harvard University Press
サーディーズ
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ナビゲーションに移動 検索に移動サーディーズ(Sardi's) | |
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レストラン『サーディーズ』。2階の窓を通してカリカチュアが並んでいるのが見える。
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レストラン情報 | |
開店 | 1927年3月5日 |
種類 | レストラン(コンチネンタル料理) |
郵便番号/ZIP | 10036 |
国 | アメリカ合衆国 |
州 | ニューヨーク州 |
市 | ニューヨーク |
住所 | マンハッタンの劇場地区、西44丁目234番地(ブロードウェイと8番街の間) |
ウェブサイト | www |
サーディーズ(英語: Sardi's)は、ヨーロッパのコンチネンタル料理を提供するレストランである。マンハッタンの劇場地区西44丁目234番地(ブロードウェイと8番街の間)に位置し[1]、ショービジネスに関わる著名人のカリカチュアが壁に飾られていることで有名である。1927年3月5日、現在の場所にオープンした。
設立から初期
メルキオーレ・ピオ・ヴィンチェンツォ・"ヴィンセント"・サーディ・シニア(1885年12月23日サン・マルツァーノ・オリヴェート、イタリア–1969年11月19日)とその妻エウゲニア("ジェニー")・パレラ(1889年7月14日カステッラルフェーロ、イタリア)は、1921年に自身らにとって初めての料理店となる「The Little Restaurant」を西44丁目246にオープンする[2][3]。1926年、セント・ジェームズ劇場建設のため、建物の解体が決まった。だが、劇場業界の大物であったシューベルト兄弟から、料理店の所在地から少し先の地区に建設中の新ビルへと移転しないかとの申出を受け[4]、1927年3月5日、劇場建築家ハーバート・J・クラップが設計した建物に、新レストラン「サーディーズ」が開店する[5]。
移転後、折しも世界恐慌による景気の悪化が重なり事業の業績が伸び悩んだため、ヴィンセント・サーディは顧客を引き付ける仕組みを考案する。1920年代にキャバレー業界の大立者だったジョー・ゼッリが経営するパリのレストランやジャズ・クラブの壁に映画スターのカリカチュアが飾られていたのを思い出し、サーディはそれを自分の店で再現することにしたのである[6]。サーディは、ロシア難民であったアレックス・ガード(1898年–1948年、本名アレクセイ・クレムコフ、ロシアのカザン出身)ブロードウェイの著名人の絵を描く画家として雇った。サーディとガードは、サーディーズでの一日あたり二度の食事と引換えにカリカチュアを描き、ガードはサーディーズの食事を決して批判しないという条件で契約を締結する[7]。ガードが公式に初めて描いたカリカチュアは、『三ばか大将』で有名なヴォードヴィリアンのテッド・ヒーリーのものであった。サーディの息子であるヴィンセント・サーディ・ジュニア(1915年–2007年)[8]は、1947年にレストラン経営を引き継ぎ、ガードに契約内容の見直しを提案した。だが、ガードはこれを固辞し、死ぬまで食事と引換えにカリカチュアを描き続けた[7]。
人気の高まり
サーディーズは、ウォルター・ウィンチェルとウォード・モアハウスが執筆する新聞のコラムにしばしば取り上げられ、これによってその人気はさらに高まった[9]。ウィンチェルとモアハウスは、新聞記者、広報関係者、劇の評論家らで構成されるグループに所属していた。彼らはチーズ・クラブと自称し、定期的にサーディーズで昼食会を催していた。ヘイウッド・ブルーン、マーク・ヘリンジャー、広報のアーヴィング・ホフマン、俳優のジョージ・ジェッセル及びリング・ガードナーもまたチーズ・クラブのメンバーであった。実のところ、アレックス・ガードを初めてチーズ・クラブのランチのためにサーディーズへと連れていったのはホフマンである。ガードは、そこでチーズ・クラブのメンバーたちのカリカチュアを描き、ヴィンセント・サーディはそれを彼らが座るテーブルの上側の壁に掛けて飾った。そのことがきっかけで、サーディは上記のゼッリの絵のことを思い出し、ガードとの契約につながった[7]。
レストランは、公演前後のたまり場や、公演初日のナイトパーティーの会場としても有名になった。劇場を愛したヴィンセント・サーディは、ブロードウェイの出演者たちのスケジュールに合わせて、同じエリア内に存在する他のレストランよりも閉店時間をはるかに遅くに設定していた。
1932年、ロサンゼルスのハリウッド・ブールヴァードにサーディーズの支店がオープンする。24時間営業で、ブロードウェイ同様に著名人の間で人気があったが、1936年にキッチンからの出火により全焼し、閉店している[10]。
サーディ家はイタリア系であるが、レストランで提供しているメニューはイタリア料理ではなくコンチネンタル料理で、どちらかというと「イギリスの食事」に近いものである[11]。1957年、ヴィンセント・サーディ・ジュニアは、ヘレン・ブライソンと共同でサーディーズのレシピを料理本にまとめた。その『Curtain Up at Sardi's』には、グリルドチーズからシャンパン・カクテルまで、300近くにのぼるレシピが記載されている[12]。だが、1987年までに、その食事について、ザガットが「料理はお笑い」と評したことがある。調査を受けたある客は、サーディーズのことを「ブロードウェイで最長ロングランのギャグ」と呼んだ[13]。
1990年、ヴィンセント・サーディ・ジュニアは、デトロイトのプロデューサーらに対して620万ドルでサーディーズを売却し、バーモント州で引退生活に入ろうとした[14][3]。しかし、その後買い手が債務を履行せずに倒産したため、翌1991年に再度レストランを取り戻し、レストランの改修とメニューの見直しを実施した上で、営業を再開した[9][15]。
今日のサーディーズは、ブロードウェイの一部をなす施設と考えられている。作曲家スティーヴン・ソンドハイムは、2000年に行われたインタビューでニューヨークの劇場の雰囲気の変化について嘆きつつ、次のように語っている。「今は実に不毛な時代だ。ミュージカル作家が作品を書くのはせいぜい2、3年に1度。いったい誰がサーディーズに集まる?そこで何を話すことがある?今の時代、ショーはただ劇場で機械的に上演され、それが続くだけなんだ」[16]
ブロードウェイの非公式の市長と言われたヴィンセント・サーディ・ジュニアは2007年1月に死去[15]、ヴィンセント・サーディ・シニアの曾孫に当たるショーン・リケッツが、共同所有者として今もレストランの営業を続けている[6]。
カリカチュア
アレックス・ガードは700を超えるカリカチュアをサーディーズに描き残した[17]。ガードが1948年に死去したため、ジョン・マッケイがレストランのための絵描きの仕事を引き継いだが、その後間もなくしてドン・ベヴァンに代わった。べヴァンは1974年に引退するまで絵を描き続け、ブルックリン生まれのリチャード・バラツに交代した[18]。 バラツは、それまでアメリカ合衆国製版印刷局で有価証券の彫版作成に携わっていた職人であった[19]。バラツはペンシルベニアに住み、現在までサーディーズのカリカチュアリストを務めている。
俳優ロバート・クッチオーリのスポークスマン、ジュディ・カッツは、『プレイビル』誌のインタビューで次のようなエピソードについて語っている。「ジミー・キャグニーが死んだ日、そのカリカチュアが壁から盗まれたのよ。そのことがあってから、絵が完成したらそのコピーを2点作って、オリジナルは保管室に置くことになったの。そしてコピーの一方は絵のモデルになったラッキーな人に送り、他方はサーディーズの壁に飾る。そうやって、泥棒みたいな人たちに絵が持っていかれないような工夫をしてるんです」[20]
1979年、ヴィンセント・サーディーズ・ジュニアは、227点にのぼるカリカチュアのコレクションを、ニューヨーク公共図書館のビリー・ローズ・シアター・コレクションに寄付した[21]。
1991年には、サーディーズのカリカチュアのうち275点を収めた本『Off the Wall at Sardi's』が出版された[22]。現在、サーディーズには1300を超える著名人のカリカチュアが展示されている[17]。
トニー賞
サーディーズは、トニー賞が誕生した場所でもある。1946年にアントワネット・ペリー(愛称トニー)が死去した後、その仕事上のパートナーで劇場プロデューサー・演出家のブロック・ペンバートンは、サーディーズで昼食をとっているときに、ペリーを栄誉を称えるために劇場関係の賞を創設しようと思いついたのである。1947年、第1回目のトニー賞で、ヴィンセント・サーディは「20年の間サーディーズで、劇場人たちにつかの間の家と安らぎの場を与えた」功績によって特別賞を授与された[23]。長年、トニー賞ノミネートの発表はサーディーズで行われていた。ヴィンセント・サーディ・ジュニアは、2004年にトニー賞の栄誉賞を受賞している[24]。また、サーディーズは、アウター・クリティクス・サークル賞の授賞式の会場になっているほか、多くのブロードウェイ関係の記者会見や祝賀会といったイベントに使用されている。
大衆文化
映画
サーディーズが使用されたシーンのある映画には以下のようなものがある。
- 『Love Is a Racket』(1932年):ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、アン・ドヴォラック出演
- 『The Velvet Touch』(1948年):ロザリンド・ラッセル出演
- 『Forever Female』(1953年):ジンジャー・ロジャース、ウィリアム・ホールデン、ポール・ダグラス出演
- 『喝采』(1954年):ビング・クロスビー、グレース・ケリー、ウィリアム・ホールデン出演
- 『But Not for Me』(1959年):クラーク・ゲーブル出演
- 『Please Don't Eat the Daisies』(ママは腕まくり)(1960年):デヴィッド・ニーヴン、ドリス・デイ出演
- 『Critic's Choice』(1963年):ボブ・ホープ、ルシル・ボール出演。本映画の撮影はハリウッドで行われた。実際のレストランから貸与を受け、サーディーズの内装が、メニュー、皿、記念品といったものまで忠実に再現された。
- 『No Way to Treat a Lady』(1968年)
- 『Made for Each Other』(1971年):レニー・テイラー、ジョセフ・ボローニャ出演
- 『殺しのファンレター』 (1981)
- 『喝采の陰で』(1982年)
- 『キング・オブ・コメディ』(1983年):サーディーズのカリカチュアリスト、リチャード・バラツも登場する。
- 『マペットめざせブロードウェイ!』(1984年)
- 『ラジオ・デイズ』(1987年)
- 『スウィッチ』(1991年):ブレイク・エドワーズ監督。エレン・バーキンとロレイン・ブラッコが、サーディーズで夕食を食べながら自分たちの関係について語り合うシーン。
- 『Naked in New York』(1993年)
- 『プロデューサーズ』(2005年)
- 『Shortcut to Happiness』 (2007年):アレック・ボールドウィン、ジェニファー・ラブ・ヒューイット、アンソニー・ホプキンス出演
- 『フロスト×ニクソン』(2008年):二人でカリフォルニアに発つ際、デービッド・フロストがジョン・バートに対し、サーディーズに関して話をする。
テレビ番組
サーディーズが登場するテレビ番組には、以下のようなものがある。
- 『マッドメン』シーズン2エピソード『ニュー・ガール』(The New Girl):ドン・ドレイパーがボビー・バレットとともにサーディーズに飲みに行くと、そこで以前の恋人レイチェル・メンケンにばったり出会う。レイチェルは、自分が結婚したと告げ、夫のティルデン・カッツを紹介する。このシーンでは、カリカチュアが壁に掛かっているのがはっきりと見える。
- 『Glee/グリー』のエピソード『夢のニューヨーク』(New York):フィン・ハドソンがレイチェル・ベリーをサーディーズにデートに連れて行くと、そこでパティ・ルポーンに遭う。
- 『グリー』のエピソード『ビートルズでプロポーズ!』(Love, Love, Love):レイチェル・ベリーが『イエスタデイ』を歌いながら、サーディーズの前を通りつつ店内を覗き込む。
- 『となりのサインフェルド』エピソード『The Summer of George』(シーズン8最終話):クレイマーがトニー賞を間違いでもらってしまった後、ブロードウェイの人々と食事をするシーンでサーディーズの外装が映る。
- 『スティーブ・アレン・ショー』NBC(1957年1月20日):ニューヨーク映画批評家協会賞授賞式に出席していたイングリッド・バーグマンとカーク・ダグラスが、サーディーズでスティーブ・アレンからインタビューを受ける。
- 『ニューハート』エピソード『Saturday In New York with George』:ボブ・ニューハート扮するディック・ラウドンは、ジョージ・アトリーを終夜営業しているデリに行こうと誘うが、アトリーは、サーディーズに行った後は、どこのメシでも「テンション下がる」と答える。
- 『トワイライト・ゾーン』エピソード『A Stop at Willoughby』:ジェームズ・デイリー扮するガート・ウィリアムズは、サーディーズで部下を探してくるようその秘書に頼む。
書籍
サーディーズについて言及している書籍には、以下のようなものがある。
- 『フラニーとゾーイー』の「ゾーイー」:J・D・サリンジャー作。雑然としたグラース家のアパートの壁を、サーディーズの壁になぞらえる描写がある。
- 『Someday Someday Maybe』:ローレン・グレアム作。フラニーとダンが初めてキスをした場所。
- 『ダイヤモンドは永遠に』:イアン・フレミング作
- 『Don't Stop the Carnival』:ハーマン・ウォーク作。広報担当として働く主人公ノーマン・ペーパーマンは、クライアントの接待場所としてサーディーズを検討する。
歌
サーディーズについての言及がある歌には、以下のようなものがある。
- 『This Could Be the Start of Something (Big)』:作詞・作曲スティーブ・アレン
- 『プロデューサーズ』から『I Wanna Be A Producer』(プロデューサーになりたい):作詞・作曲メル・ブルックス
- 『タイトル・オブ・ショウ』から『Part of it All』 :作詞・作曲ジェフ・ボウエン
ラジオ放送
1947年3月8日、ヴィンセント・サーディ・ジュニアは、『Luncheon at Sardi's』(サーディーズで昼食を)と題したサーディーズのダイニングルームからのラジオのライブ放送を開始した。当初はビル・スレイター、レイ・ヘザートン及びアルレーン・フランシスがホストを務めていた[25]。現在は、ジョアン・ハンバーグが、サーディーズから折に触れて放送を行っている[26]。
関連項目
脚注
- ^ [1]
- ^ “Noi Monferrini”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ a b “Vincent Sardi Jr.: 1915 - 2007”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “10 Things You Didn’t Know About the Shubert Theatre”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ http://www.shubertarchive.org/pdf/passingshows/vol16_s1993.pdf (PDF)
- ^ a b “Dine With the Stars at Sardi’s”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ a b c “SARDI’S RESTAURANT OFFERS MORE THAN A TASTE OF BROADWAY”. Broadway Direct. 2017年8月5日閲覧。
- ^ New York Times, January 5, 2007, "Owner of Sardi’s Restaurant Dies at 91"
- ^ a b “Vincent Sardi Jr., Owner of Legendary New York Theatre Restaurant, Is Dead at 91”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “Structure Type: built works - commercial buildings - restaurants”. Pacific Coast Architecture Database. 2017年8月4日閲覧。
- ^ Vincent Sardi, Sr. with Richard Gehman.
- ^ “Perfect Onion Soup Recipe? From Curtains Up at Sardi’s, 1957”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ https://www.nytimes.com/1990/11/02/arts/the-curtain-goes-up-again-at-sardi-s.html
- ^ “The Curtain Goes Up Again at Sardi's”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ a b “Vincent Sardi Jr., Restaurateur and Unofficial ‘Mayor of Broadway,’ Dies at 91”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ Rich, Frank (2000年3月12日). “Conversations With Sondheim”. The New York Times 2008年4月4日閲覧。
- ^ a b Kings of Madison Avenue: The Unofficial Guide to Mad Men
- ^ Richard Baratz
- ^ “Richard Baratz Draws 'Em Like He Sees 'Em”. Playbill. 2017年8月5日閲覧。
- ^ Lefkowitz, David (October 28, 1997).
- ^ “Alex Gard caricatures, ca. 1926-1948”. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “CHRONICLE”. The New York Times. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “The Story of the Tonys”. The Official Website of the American Theatre Wing's Tony Awards. 2007年1月23日閲覧。
- ^ “2004 Tony Award Winners - Browse by Year”. Broadway World. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “The Man at the End of the Bar”. The New York Times. 2017年8月5日閲覧。
- ^ “Joan Hamburg’s Luncheon at Sardi’s! [Exclusive Photos]”. 77WABC Radio. 2017年8月5日閲覧。
参考文献
- Vincent Sardi, Jr. with Thomas Edward West. Off the Wall at Sardi's (Applause Books, 1991) ISBN 1-55783-051-7
- Vincent Sardi, Jr. with Helen Bryson. Curtain Up at Sardi's (Random House, 1957)
- Vincent Sardi, Sr. with Richard Gehman. Sardi's: The Story of a Famous Restaurant (Henry Holt and Co., 1953)
外部リンク
- 公式サイト
- Sardi's (Restaurant) caricatures, 1927-1952?, held by the Billy Rose Theatre Division, New York Public Library for the Performing Arts
- Sardi's (Restaurant) papers, 1913-1976, held by the Billy Rose Theatre Division, New York Public Library for the Performing Arts
- Video of Dirty Rotten Scoundrels cast caricature event at Sardi's in 2005
- Playbill: "Vincent Sardi, Jr., Remembered at Broadway Memorial"
- The Joan Hamburg Show
- Eugenia Pallera e il Ristorante Sardi's di New York (italian)
座標: 北緯40度45分28.48秒 西経73度59分15.12秒 / 北緯40.7579111度 西経73.9875333度
- Sardi'sのページへのリンク