ザファール第7号作戦
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ナビゲーションに移動 検索に移動ザファール第7号作戦 | |
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戦争:イラン・イラク戦争 | |
年月日:1988年3月17日〜3月下旬 | |
場所:イラク・クルディスタン | |
結果:イランの戦術的勝利 ハラブジャ事件の発生 | |
交戦勢力 | |
![]() |
![]() クルド愛国同盟 |
指導者・指揮官 | |
スルターン・ハーシム第1軍団長 | アリー・サイヤード・シーラーズィー ジャラル・タラバニ |
戦力 | |
イラク第1軍団 | イラン国軍 革命防衛隊 ペシュメルガ |
損害 | |
不明 | 不明 |
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ザファール第7号作戦(ザファールだいななごうさくせん)は、イラン・イラク戦争中、北部戦線で展開されたイラン軍とクルド人武装勢力による攻勢作戦である。
概要
イラン国軍は度重なる攻勢で革命前に溜め込んだ余力を消耗しつくし戦力は低下していた。一方革命防衛隊は開戦以来狂信的な信仰心と殉教精神を活かした人海戦術から脱皮しつつあった。前年1987年頃から指導層の一部はこの人海戦術一辺倒の方針に疑義を持った。これにいち早く応じたのが事実上の後援者ハーシェミー・ラフサンジャーニーであった。同隊の装備品の強化に伴い、訓練を周到に終えた上で前線に投入されることとなった。これは、戦後を睨んだラフサンジャーニーの権力基盤強化の一環であった。
依然として中・南部戦線において膠着状態が続いていたが、北部戦線のみはイランが優勢を保持していた。イラン軍はこの戦線において更なる戦果の拡大を狙った。
戦闘
ナスル第4号作戦でキルクークを占領したイラン軍は更なる戦果の拡大を狙い、次に要衝スレイマニヤを占領を企図した。イラク軍は当初は大した抵抗を行わず国境地帯から撤退を開始、それをイラン軍が追撃する形となった。しかし、進撃中のイラン軍に対し各所で反撃を開始するもその多くは待ち伏せにより撃破された。やがてイラン軍はスレイマニヤに到着し同地を占領した。事態を深刻視したイラク軍は反撃手段を選ばなくなっていた。
ハラブジャ事件
イラク軍による反撃は、エスカレートし遂に化学兵器を使用するにおよんだ。イラクは、クルディスタン一帯の住民を半ば敵視しており、実際にその一部はイラクに対して抵抗運動をしていた。これをイランは尖兵として利用し北部戦線の戦闘を有利に進めていた。イラクはこれらクルド人武装組織の基盤である住民に対して虐殺行為をするに至った。
参考文献
- 鳥井順『イランイラク戦争』(第三書館)
- 松井茂『イラン-イラク戦争』(サンデーアート社)
- ケネス・ポラック『ザ・パージアン・パズル 上巻』(小学館)
関連項目
「Operation Zafar 7」の例文・使い方・用例・文例
- 7年ぶりに帰省しました
- 父は70歳で死にました
- 彼女は職を求めて7社に応募した
- おそらく17世紀最高の英国作家といえるジョン・ミルトン
- 第74回アカデミー賞
- 「生年月日はいつですか」「1970年2月20日です」
- 75セント
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- 彼はそのタクシー会社に7,000ドルの損害賠償を請求した
- 祖父は1997年に死んだ
- 私たちはいつも7時に夕食をとります
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