900年から1066年まで
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「サセックス王国」の記事における「900年から1066年まで」の解説
「エーリンギ (Æellingi)」と称された南サクソン王家は、その後もサセックスを、西サクソンの主権の下で「エルダーマン」(伯爵)として統治していたと考えられており、この体制は1066年のノルマン征服まで続いた。 サセックスのエルダーマンであったエドウィン (Eadwine) の死は、982年のことと記録されているが、これは彼がバークシャー州(現在の行政区画ではオックスフォードシャー州)のアビンドン修道院 (Abingdon Abbey) に埋葬され、そこで『年代記』のバージョンのひとつが編纂されたためであった。この修道院の記録によると、エドウィンは「南サクソン人の君主」を意味するラテン語「プリンケプス・アウストラリウム・サクソヌム、エアドウィヌス」と呼ばれ (princeps Australium Saxonum, Eadwinus nomine)、遺言を残して自らの領地をこの修道院に遺贈したとされるが、その遺言状自体は後世に伝わっていない。死去した982年の早い時期に、エドウィンはエゼルレッド2世無思慮王の勅令の証人となり、「伯爵エアデュウィン (Eaduuine dux)」とラテン語で名を記していた。エドウィンの名は、(おそらくは976年とあるべきものを誤った)956年の年号が入った偽造勅令にも書き加えられている。 次の世代になるとサセックスのセイン(貴族)であったウルフノス・キルド (Wulfnoth Cild) が、イングランドの政治において重要な役割を演じた。1009年には、彼の行動がきっかけとなってイングランドの艦隊は壊滅し、1011年にはサセックスは南東イングランドの大部分とともにデーン人の手中に落ちた。デーン朝の諸王は、早くから地方行政改革を行い、アングロ・サクソンに由来する小規模な伯爵領(ealdormanries)を廃し、より少数で、より規模が大きい新たな伯爵領(earldoms)を設けた。ウルフノス・キルドは、1020年にウェセックス伯爵とされたゴドウィンの父であった。この伯爵領にはサセックスも含まれていた。ゴドウィンが1053年に没したとき、サセックスを含むウェセックス伯爵領は、イースト・アングリア伯爵 (Earl of East Anglia) であった息子ハロルド(後のイングランド王ハロルド2世)に継承された。 1066年10月14日、イングランドにおける最後のサクソン人の王ハロルド2世は、ヘイスティングズの戦いで討ち死にし、イングランド勢は、ウィリアム征服王とその軍勢に敗北した。このときサセックスの戦士は全員がこの戦いに加わっていたものと思われ、この地域のセイン(貴族)の多くはこの戦いで殺され、生き延びた者の所領は没収された。少なくとも、この地域にあった387か所の荘園のうち、353か所は、征服王によってサクソン人の所有から取り上げられ、勝利したノルマン人たちに与えられ、サセックスにおけるサクソン人の勢力は一掃された。
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