7年制高等学校の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 02:01 UTC 版)
「旧制高等学校」の記事における「7年制高等学校の登場」の解説
第二次高等学校令では設置者についての規定も緩和され、高等学校は政府(文部省)でなくても設立できるようになった。主な例として、私立では東武鉄道の根津財閥による武蔵高等学校、当代一流の教育家であった澤柳政太郎の肝煎りである成城高等学校、三菱財閥の岩崎家が支援した成蹊高等学校、阪神地区の財界人が集まって設立した甲南高等学校、公立では地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立した富山県立富山高等学校がある。第二次高等学校令に基づくこれらの公私立高等学校はいずれも7年制高等学校であり、各校の設立構想には当時の先端的な教育思想を信奉していた教育家や英国流のパブリックスクールに傾倒していた国際派経済人が飛び付き、その多くはスマートな気質の学生を育てることを目指した。武蔵高等学校のように、スポーツを禁じて落第者・退校者を多数出すことも辞せず、東京帝大への入学率で一高を抜いた学校すらあった。これらの学校は、尋常科(4年制)と高等科(3年制)からなる7年制高等学校(学習院は尋常科に当たる中等科5年を併設した8年制)であり、一度、尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。かつ、甲南・成城・成蹊の3私立高校の場合、併設の小学校へ入学すれば、6、7歳にして将来は東京帝国大学をはじめとする帝国大学群への進学の道が開けることとなり、人気を集めた(学習院も初等教育機関(学習院初等科)を包含していた)。後に東大総長となる加藤一郎も成城小学校(現:成城学園初等学校)から成城高等学校に進んでいる。 八高出身のエッセイスト・三國一朗は東京帝大に入学した際、7年制高等学校出身の東大生を目撃し、「異様なタイプの東大生の一群」と評している。7年制高等学校はスマートだが重量感に乏しい受験秀才と文芸青年を生み出したとの評価もある。 ただし、官公立高校では、東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになり、その後も浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校、台北高等学校の各尋常科も相次いで廃止され(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)、学制改革期まで尋常科募集を続けたのは、東京府が設立した府立高等学校のみであった。 なお、一高をはじめとする官立高校の多くは当初の形態通り、3年制の高等科だけを置いた。
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