7年戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 01:49 UTC 版)
「ティムールの征服戦争」の記事における「7年戦役」の解説
西方方面は危機的状況に陥っていた。膨張著しいオスマン帝国のバヤズィト1世雷帝はアナトリア半島に浸食してカラマン・シヴァス両侯国を併合しティムール朝と国境を接するに至った。更にはジャライル朝と黒羊朝を支援し、ティムールの封臣であるタハルテンに圧力を加えていた。これに対して西方を任されていたミーラーン・シャーは有効な手立てを打てないどころか、精神を病み荒れた生活を送っていた。 この報告を受け取ったティムールは9月10日にサマルカンドを発つと現地のアゼルバイジャンに移り、その地でミーラーン・シャーを更迭してその側近を処刑することで引き締めを行った。その後、グルジアを下して、1400年8月にオスマン帝国の東方基地であるシヴァスを攻略して西方の安全を固めたのである。 その頃、マムルーク朝では前年にバルクークが死去し、その息子ファラジュが即位していた。ティムールはこれを好機と捉えて10月末にシリアに軍を進め、バハスナ、アインターブを次々と攻め落としてアレッポに迫った。アレッポを守るティムールタシュは籠城戦を採った。ティムールは「おびき寄せ戦法」を採り、城外に打って出たマムルーク朝軍は殲滅されたのであった。11月初めにアレッポは陥落し、休む間もなくティムールは南下してダマスカスへの包囲を開始した。 ファラジュは大軍を率いてダマスカス郊外で陣を張り、使者を装った暗殺者を送るがティムールに見破られる。ティムールは憤激してこれを処刑し、恫喝を行った。ファラジュはこれを受け入れる形を採ったが、年が明けて1401年となるとカイロへ退却したが、ティムールは孫のアブー・バクル(ミーラーン・シャーの子)に追撃を命じて打ち破った。ダマスカスもやがて陥落するが、ティムールは「懲罰」として破壊と略奪に任せている。因みに、ティムールがイブン=ハルドゥーンと会見しているのがこの頃である。 シリアが陥落したことによりバグダードのジャライル朝は袋の鼠も同然となった。6月にバグダードの包囲は開始され、7月9日に総攻撃が開始された。バグダードは徹底的に破壊され、切り取られた市民の首でピラミッドが幾つも作られたと言う。
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