500万両の250年分割払い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「500万両の250年分割払い」の解説
前述のように改革開始当初、調所は巨額の藩債の利子支払いを中止し、焦げ付いていた返済金については少額の金銭を支払って支払期限の繰り延べを行っていた。しかし文政末年に500万両に達した藩債は年7分とすると35万両の利息となり、これだけで藩財政が回らなくなってしまう。調所は腹心の浜村孫兵衛(出雲屋孫兵衛)と藩債問題の抜本的解決法について協議を重ねた。 浜村の提案により天保6年(1835年)11月、調所は藩債の利息支払い停止、元金250年分割払いという思い切った策を断行した。これまでの借用証文は全て薩摩藩側が回収し、債権者には新たに借用金高を記入した通帳が交付され、年ごとに元金の250分の1が支払われるようになった。これは全ての藩債に適用され、藩主の親戚筋となる近衛家、御三卿の一橋家からの借財も例外扱いしなかった。薩摩藩は債務返済に年2万両の支出で済むようになり、資金繰りは大幅に改善した。 債務の利息を支払わない上に250年賦払いという半ば借金踏み倒し行為に、当然債権者からは強い反発の声が上がった。債権者からの抗議を受け、大坂町奉行所は提案者の浜村孫兵衛を逮捕勾留の上、堺に追放処分とした。しかし薩摩藩、調所に対しては何のお咎めもなかった。薩摩藩は亡き重豪が幕府から受けた重恩を謝すとの名目で、天保7年(1836年)4月、10万両を献上した。これは幕府対策であったと考えられている。 一方、薩摩藩領内の藩の借財については利息のみならず元金分の支払いも停止した上で、借財の帳消しの対価として身分の引き上げを行うことで解決していった。
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