48歳から死去まで ─霊華芸術の完成
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「吉川霊華」の記事における「48歳から死去まで ─霊華芸術の完成」の解説
金鈴社は大正11年(1922年)に解散するが、熱心なファンを得たことで画の依頼が増え、新たな支援者も獲得していった。大正8年(1919年)には、官展への出品経験が殆どないにも関わらず、官展に無監査で出品できる「推薦」資格が与えられ、金鈴社解散後すぐに審査員に任命され、翌年展覧会委員に就任している。推薦の資格を得たことで、正倉院拝観の資格を得たため、以後毎年欠かさず秋の曝涼へ通い、通常一日しか拝観できないのを特別に二日見せてもらい、一層の古典研究に励む。 画も円熟を迎え、細い線をリズミカルに、かつ自在に引き分けることで、高雅にして清冽な美を生み出した。霊華の線は、始筆と終筆がはっきりとし、スピードを持って引かれることで、独特の強さとムーヴメントを生んでいる。霊華はこれを「春蚕吐絲描(しゅうさんとしびょう)」と名付け、その修練を怠らなかった。霊華は筆選ぶ画家のなかでも特に筆を選び、硯海堂の得應軒という名人が作った筆を20本位買っても、その中から1,2本くらしか使わなかったという。そうした中で15年ぶりの官展出品作として大正15年(1916年)第七回帝展で発表した「離騒」は、画壇に衝撃をもって迎えられた霊華畢竟の大作である。反面、霊華は常に「自分は画描きではない」「画家と言われるのが一番つらい」と漏らしており、自宅の看板には画塾ではなく、「書法教授」の看板を掲げていたという。 昭和4年(1929年)腸チフスにより急逝。死の床では高熱に浮かされながら、「中宮寺の観音様が御手を胸にかけておられるので、重いからおろして欲しい」「いま中宮寺の菩薩の掌に乗った」などと、うわ言を呟いていたという。戒名は逢原院殿瑞香霊華大居士。菩提寺は台東区の津梁院。亡くなって古本屋にその蔵書を引き取ってもらう際には、トラック3台分にもなったという逸話が残る。 弟子に、塚本霊山、山田紫紅、岡田華郷、森田菁華らがいる。
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