48歳から死去まで ─霊華芸術の完成とは? わかりやすく解説

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48歳から死去まで ─霊華芸術の完成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 05:41 UTC 版)

吉川霊華」の記事における「48歳から死去まで ─霊華芸術の完成」の解説

金鈴社大正11年1922年)に解散するが、熱心なファン得たことで画の依頼増え新たな支援者獲得していった。大正8年1919年)には、官展への出品経験殆どないにも関わらず官展に無監査出品できる推薦資格与えられ金鈴社解散後すぐに審査員任命され翌年展覧会委員就任している。推薦資格得たことで、正倉院拝観資格得たため、以後毎年欠かさず秋の曝涼通い通常一日しか拝観できないのを特別に二日見せてもらい、一層の古典研究に励む。 画も円熟迎え、細い線をリズミカルに、かつ自在に引き分けることで、高雅にして清冽な美を生み出した。霊の線は、始筆と終筆がはっきりとし、スピード持って引かれることで、独特の強さムーヴメント生んでいる。霊はこれを「春蚕吐絲描(しゅうさんしびょう)」と名付け、その修練を怠らなかった。霊は筆選ぶ画家なかでも特に筆を選び硯海堂の得應軒という名人作った筆を20本位買っても、その中から1,2本くらしか使わなかったという。そうした中で15年ぶりの官展出品作として大正15年1916年第七帝展発表した離騒」は、画壇衝撃をもって迎えられた霊畢竟大作である。反面、霊は常に「自分は画描きではない」「画家と言われるのが一番つらい」と漏らしており、自宅看板には画塾ではなく、「書法教授」の看板掲げていたという。 昭和4年1929年腸チフスにより急逝死の床では高熱浮かされながら、「中宮寺観音様御手を胸にかけておられるので、重いからおろして欲しい」「いま中宮寺菩薩の掌に乗った」などと、うわ言呟いていたという。戒名は逢原院殿瑞香居士菩提寺台東区津梁院。亡くなって古本屋にその蔵書引き取ってもらう際には、トラック3台分にもなったという逸話が残る。 弟子に、塚本霊山山田紫紅岡田華郷森田らがいる。

※この「48歳から死去まで ─霊華芸術の完成」の解説は、「吉川霊華」の解説の一部です。
「48歳から死去まで ─霊華芸術の完成」を含む「吉川霊華」の記事については、「吉川霊華」の概要を参照ください。

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