20年延長の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「20年延長の獲得」の解説
文政8年(1825年)3月の長崎商法の品増以降、文政12年(1829年)には翌文政13年(1830年)からの5年の年限延長が認められた。先述のようにその際、やはり石本家の幕閣、長崎奉行所関係者への付け届けが威力を発揮した。また文政12年の年限延長時には16品目のうち4品目の品替えが行われた。 次回の期限切れを前に、薩摩藩としては気がかりな点があった。これまでの長崎商法の認可、拡張、延長は、将軍家斉の岳父である重豪の政治力が大きく物を言った。しかし天保4年(1833年)1月に重豪は亡くなり、重豪と太いパイプがある上に将軍側近で幕府の実力者であった水野忠成も高齢となり、引退も間近い情勢であった。こうなると長崎商法の延長に問題が起きる可能性が出てくる。調所広郷は天保4年4月、大坂商人浜村孫兵衛に送った書簡の中で、重豪が亡くなり、水野忠成の引退も囁かれている中で長崎商法の今後に懸念があることを認めながらも、既に期限延長に向けて長崎の町役人らとも相談している等、様々な手を打っていることを伝えていた。 天保5年(1834年)2月、水野忠成が没し、翌月には水野忠邦が西の丸老中から本丸老中となり、水野忠成の勝手掛老中の職は浜田藩主松平康任が任じられた。松平康任の嫡子であった松平康寿には薩摩藩主斉興の妹、勝姫が嫁いでいて、島津家と浜田藩松平家との間にはパイプがあった。そこで薩摩藩は幕閣では松平康任を主なターゲットとして延長工作を行った。また天保5年2月には石本家の五代勝之丞が幕府の御勘定所御用達に百姓の身分で初めて任命された。調所広郷の指示もあって石本家の五代勝之丞が御勘定所御用達の立場を利用して、数度にわたって延長を求める願書を提出するなど幕閣の各方面に働きかけた。さらには前述のように長崎の地役人、長崎会所の役人にまで付け届け攻勢をかけて懐柔を図った結果、天保5年(1834年)6月、幕府から翌天保6年(1835年)から20年間の延長が認められた。
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