20年以上の在米と帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:39 UTC 版)
胎中は1896年(明治29年)6月に駐米公使に任命された星亨の後を追うように渡米した。胎中の渡米は星の「あいつを日本に置いてはあいつ自身の為にならない」との判断によるものであった。しかし胎中はハワイに着くとその地に留まり、当時アメリカの傀儡国家であったハワイ共和国を日本のものにしようと画策した。胎中の画策に危機感を抱いた周囲の者たちは、「おまえがハワイにいては日本のためにならない」と説得し、結局当初の予定通り渡米することになった。 胎中のアメリカ在住期間は20年を越えた。結局、星亨門下の先輩に当たる横田千之助の勧めに従って日本に帰国したのは1918年(大正7年)9月のことであった。胎中が日本に帰国した1918年(大正7年)9月、政友会による本格的政党内閣である原内閣が成立しており、横田は政友会の幹事長を務めていた。帰国当初、胎中は政治家になるつもりは無かったが、旧友である横田を政治家として大成させる手助けをしようと考え、自由党の後身である政友会に入党した。 自由民権運動、そして20年以上の滞米生活の中で培われた人脈を持つ胎中は、原内閣の裏方として支えていく。そしてワシントン軍縮会議に法制局長官の横田千之助に従い、原首相からの特命を受けて参加することになった。しかしこのアメリカ派遣の最中に原敬は暗殺される。原敬の暗殺は胎中に大きな影響を与えたと考えられる。
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