1989年-1996年:アンジャル・クロムによる党の転換
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「カタルーニャ共和主義左翼」の記事における「1989年-1996年:アンジャル・クロムによる党の転換」の解説
1989年11月にリェイダで開催された第16回ERC党大会で、ジュアン・ウルタラーに代わって、リスト筆頭候補者に名が乗ったこともあるジュゼップ=リュイス・カロッド=ルビーラを通り越して、新書記長に選出されたアンジャル・クロムに代表される若い世代のリーダーたちによって党再生が開始された。この党大会でカタルーニャ語圏の独立が党の政治目標として承認され、カタルーニャ州外の党員の獲得が始められることとなり、その後バレアレス諸島(1989年)とバレンシア州(1992年)においてERCの支部組織が設立されることとなった。 アンジャル・クロムは分立する多数の小政党に属する、あるいはより急進的な考えを持つなどの多くのカタルーニャ独立主義の若者をアスケーラに結びつけるためのプロセスを開始した。90年代の最初の数年間、ERCはテロリスト集団テーラ・リウラ(自由な大地の意)(スペイン語版)のメンバーを取り込むことを通じて、暴力主義を放棄させ、同組織の解散に尽力した。 これらの変革は1992年の州議選(スペイン語版)で実を結び、党勢の回復につながった。リーダーのアンジャル・クロムとジャーナリストのピラール・ラオーラ、そして初めて選挙に参加した多くの若者たちの支持によって、ERCは210,366票、8%の得票率を得て、11議席を獲得し(前回州議選のほぼ2倍)、カタルーニャのためのイニシアティブ(スペイン語版)や国民党(スペイン語版)を4議席上回り、第3党の位置を占めるに至った。 1993年6月6日に行われた総選挙において、ERCは189,632票を得、下院に初めて1議席を獲得、ピラール・ラオーラが議席についた。同年12月第19回党大会が開催、現在も有効である党の思想・イデオロギー声明が可決された。翌94年、EAといくつかの小政党と欧州議会選挙において再び諸民族のヨーロッパのため(スペイン語版)という名称で選挙連合を結成することで合意に至った。結果は、カタルーニャでは今までで最高の成績を残したが、全スペインで239,339票(1.29%)、議席確保とはいかなかった。 翌95年の州議選(スペイン語版)では、過去最高の結果であった。獲得票数305,867で、議席は11から13へ増やしたが、国民党が17議席を得て、州議会第3党の座を明け渡した。この年の党員数は6,467人を数えた。 1996年ERCは、アンジャル・クロムとピラール・ラオーラの2人のリーダーが党を離脱、独立派の票をERCと奪い合うことになる独立のための党(スペイン語版)を結党するという、党組織を揺るがす危機に見舞われた。この党分裂はERCの党員数減少をもたらし、同年末の党員数は4,000人となった。
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