1988 - 1991
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:05 UTC 版)
「ブルン・モータースポーツ」の記事における「1988 - 1991」の解説
スポーツカーで成功を収めたブルンは、同チームのドライバーを務めてきたオスカー・ララウリを支援し、F1に参戦した。ブルンはユーロレーシングと共同でユーロブルンを組織した。ウォルター・ブルンが多くの金銭的投資をしていたにも関わらず、ユーロレーシング側が運営の主導権を握っていた。チームは苦戦し、ブルンのF1への注力がスポーツカーへの取り組みを傷つけた。新たにレプソルのスポンサーを獲得したが、この年、チームはインターセリエでの1勝のみに留まった。メルセデス・ベンツがジャガーに伍してトップを争うようになり、ブルンは世界選手権で4位に後退した。 1989年に向け、ユーロブルンの体制が縮小されるとともに、ブルンはスポーツカーの体制を見直した。この年のデイトナ24時間を3位で終えると、ブルンはIMSAへのエントリーを終了し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権への参戦を開始し、デビュー戦の富士500kmでは3位を記録した。世界選手権では表彰台に立つことにも苦戦したが、安定してポイントを獲得し、ジャガー、新たに参戦した日産、トヨタ、アストンマーティンらを下して最終的に3位で選手権を終えた。 ユーロブルンの活動が資金を浪費したこと、スーパーカップ選手権が消滅したことにより、1990年に向けてチームは縮小された。全日本選手権への参戦をキャンセルし、チームは世界選手権にほぼ専念した。チームは世界選手権に専念したにも関わらず、レースでは10位以内に入ることにも苦戦した。スパ戦の5位がブルンのシーズン最上位となり、選手権は7位に終わった。 1990年シーズン終了後、ユーロブルンチームはついに解散した。同時に世界選手権は新しい車両規則への変更が始まり、1992年からはブルンらが使用する962は参戦することができなくなった。また、ポルシェも962の代替となる車両提供を行う予定は無かった。ブルンは他のメーカーから車両を購入するのではなく、ユーロブルンでの開発の経験を基に、車両を自製することを選択した。ブルンが開発したこの車両はブルン・C91と呼ばれた。このプロジェクトの資金的な理由により、チームの活動は世界選手権へのみに限定された。シーズン序盤は前年までの車両を使用し、2台ともゴールすることは少なかったが、ほぼすべてのレースで10位以内を記録し、前年を上回る成績を残した。シーズン半ばでついにC91をデビューさせたが、この車両はひどく苦戦し、レースを完走することは一度も無かった。選手権は9位に終わった。 ブルンは、1992年に向けてブルンはC91の改善を約束した。しかしながらブルンにとって、ユーロブルンの金銭的負担、C91のプロジェクト、成績不振によりスポンサーを満足させられなかったことによる負担が大きすぎた。ブルンは1992年を前にチームを閉じた。ウォルター・ブルン自身は、RWSモータースポーツ、コンラッドモータースポーツへの協力などの形でレース活動を続けた。
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