1980年代 「せめぎあい」
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「ヘアヌード」の記事における「1980年代 「せめぎあい」」の解説
1980年代に入ると状況は転じ始め、表現者の側のヘア表現が優勢になっていく。 1981年3月19日、『週刊新潮 3月26日号』において、ストリーキング女性の無修正ヘアヌード写真が掲載された。それまでのビニ本など小規模流通の雑誌と異なる大手週刊誌による掲載は初で、ワイドショーでも取り上げられたこの号は即完売となるも、警察の対応は厳重注意にとどまった。 しかし、同年は一方でたこ八郎が出演していた、陰毛丸出しの『写GIRL』『歌磨呂』が通信販売で出回るものの摘発、1983年2月には国会で少女雑誌での露骨な性交記事が問題視されたあおりで、『ギャルズライフ』が廃刊になるなど厳しい規制は続いた。その様な中で、末井昭編集の雑誌『写真時代』(白夜書房、1981年-1988年)では荒木経惟らによるヌードを掲載していたが、これには時々陰毛が写っている事があり、またロバート・メイプルソープの写真集「Lady リサ・ライオン」(宝島社、1984年)や「ブルータス」誌(マガジンハウス)の特集「裸の絶対温度」(1985年 - )にも陰毛の写った写真が掲載され、写真家や出版社は芸術としての写真表現を主張し、何を持って「わいせつ」と判断するかは論争となっていた。 そうした芸術表現としてのヘア容認を求める声が高まる中、1985年、東京国際映画祭において、芸術表現としての特例で『1984』などで無修正のヘア映像が上映される。この年、堰を切ったように『福娘』『ニューヌード』『ペントハウス』『ブルータス』『エンマ』などで相次いでヘアヌードが掲載されるも、その内ペントハウスは摘発され、全面解禁とは至らなかった。同年6月、篠山紀信はその状況に抗議するかのように『四谷シモン写真集』で人形に陰毛を生やした表現を行うなど挑戦的姿勢を取っている。また、少年漫画においても『少年チャンピオン』連載の『ぼくはウィリー!』(立原あゆみ作)で陰毛が描写されるなど、ヘア表現はなし崩し的にその陣地を拡大していった。
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