1980年代-90年代の停滞期
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「バレンシアCF」の記事における「1980年代-90年代の停滞期」の解説
1982年にはミラン・ミラニッチ監督が就任したが、1982-83シーズンは終盤戦に至っても降格の危機から抜け出せなかった。ミラニッチ監督が退いてコルド・アギーレ監督が就任し、他力本願ながらかろうじて降格を回避した。ビセンテ・トルモ会長政権下の1983-84シーズンと1984-85シーズンは借金が重くのしかかり、選手やスタッフへの給料未払い、士気の低下など、内部問題によってクラブが分裂した。1931年以来プリメーラ・ディビシオンに留まり続けていたが、1985-86シーズンは18クラブ中16位となり、創設55年目にしてクラブ史上初の降格となった。アルトゥーロ・トゥソンが新会長に就任してディ・ステファノを監督に復帰させ、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオン昇格を決めると、ディ・ステファノ監督は昇格後の1987-88シーズンも采配を振るったが、14位と低迷した。1989年にはリーグでの地位強化のためにブルガリア代表フォワードのルボスラフ・ペネフと契約した。1991年にはオランダ人のフース・ヒディンク監督が就任し、1991-92シーズンにはリーグ戦で4位、コパ・デル・レイで準々決勝に進出した。1992年には公式に株式会社化し、1993年までは続けてヒディンク監督が指揮を執った。1994年には、ブラジル代表監督として1994 FIFAワールドカップを制したばかりのカルロス・アルベルト・パレイラ監督を迎え入れた。パレイラ監督は即座にアンドニ・スビサレッタと契約し、さらにロシア人のオレグ・サレンコ、プレドラグ・ミヤトヴィッチもチームに加えたが、期待されたほどの成績は挙げられなかった。1995年にはルイス・アラゴネスが監督に就任し、ミヤトヴィッチらの活躍によって2位に躍進する。しかし、1996年にはエースのミヤトヴィッチをレアル・マドリードへ放出し、ブラジル代表のロマーリオを獲得したことでチームは混乱する。この年からはボスマン判決によって、アルゼンチン代表のクラウディオ・ロペスやアリエル・オルテガ、ルーマニア代表のアドリアン・イリエなどの外国人スター選手が集まるようになり、アラゴネスに代わって監督に就任したホルヘ・バルダーノが指揮を執るも低迷からは抜け出せなかった。
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