1958年~1959年
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「ビル・ヘイリー」の記事における「1958年~1959年」の解説
1958/Mar.3 [Skinny Minnie/ Sway With Me ](Decca 9-30592) 1958/July 7 [Lean Jean /Don't Nobody Move] (Decca 9-30681) 1958/Sept. [Borderline Label shot Whoa Mabel! / Chiquita Linda (Un Poquito De Tu Amor?)]( Decca 9-30741) 1958/Nov.17 [Corrine, Corrina/B.B. Betty ](Decca 9-30781) 1959/Feb.16 [I Got A Woman /Charmaine](Decca 9-30844 ) 1959/Mar.23 [Where'd You Go Last Night/ ( Now And Then There's) A Fool Such As I ](Decca 9-30873 ) 1959/June 22 [Caldonia /Shaky](Decca 9-30926) 1959/Aug.3 [Ooh! Look-A-There, Ain't She Pretty/Joey's Song ](Decca 9-30956) 1959/Dec 28 [Skokiaan (South African Song)/Puerto Rican Peddler](Decca 9-31030) '58年4月「スキニー・ミニー」最高22位のヒット。同年秋ヨーロッパ・ツアー。10月26日、西ベルリンのスポーツ・パラセットでの公演中、暴動が起こり多数の怪我人、逮捕者が出る。翌日カテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)主演の映画(Hier bin ich – hier bleib ich)に出演。 '58年末、ビルは二つの問題を抱えていた。IRS(米国国税庁)はビルの所得税率を50%とし差押さえを開始する。課税の対象外となる海外市場に目を向けるのは当然の成り行きだった。そしてもう一つは、ビルが資金を投資し、マネージャーのジム・ファーガソンに運営をまかせていた製鉄所、予約代理店、スタジオ、アートギャラリーなど全ての事業が破綻をきたしていた。これらの問題を解消させるであろうヒット曲が思うように出ない。スタイル・チェンジの必要に迫られたが、プロのソング・ライターでは無い彼らはすぐにアイディアが枯渇してしまう。以下ゲイブラー談。「私たちが出来た唯一の変化と言えば'59年に「ジョーイズ・ソング」をヒットさせカムバックした時だろう。当時、年配の購買層に人気があったビリー・ヴォーン楽団のようにギターとサックスのハーモニーを持たせた。ビルは最先端のロックシーンに追いつく事は難しくなっていたので、私はその方向へ行こう思った。」 しかし、以降レコードのセールスはアメリカ、イギリス共に低迷し再びヒット・メーカーとして返り咲くことはなかった。その理由としてゲイブラーは「エルヴィス・プレスリーなど若いロック・スターの台頭、ビルの自分の音楽への固執、ロック・ミュージックの急激な進化」を挙げている。1959年デッカ・レコードとの契約終了。
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