1947年のNFLドラフト
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1947年のNFLドラフト | |
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日程 | 1946年12月16日 |
開催地 | ニューヨークマンハッタン |
会場 | コモドアホテル |
指名数 | 32巡300名 |
全体1位指名 | |
ボブ・フェニモア(HB) | |
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1947年のNFLドラフト(1947ねんのNFLどらふと)は、1946年12月16日に開催された第12回目のNFLドラフト。ニューヨークマンハッタンのコモドアホテル(現ハイアットグランドセントラルニューヨーク)で開催された。
この年のドラフトからドラフト全体1位指名権はロッタリーで決定された[1]。
シカゴ・ベアーズがドラフト全体1位指名権を獲得するのは、その後、2023年まで発生しなかった[2]。ベアーズは2023年のドラフト全体1位指名権をカロライナ・パンサーズにトレードして複数のドラフト1巡指名権を獲得、2024年のドラフトでパンサーズから受け取った全体1位指名権を用いてケイレブ・ウィリアムズを指名した。
主な指名選手
2巡と4巡は5チームのみに指名権が与えられた。
前年ハイズマン賞を受賞したグレン・デービスが1巡全体2位でデトロイト・ライオンズに指名されたが軍務を優先して契約を結ばず、彼との交渉権はロサンゼルス・ラムズに譲渡された。3年後の1950年に彼はラムズと契約、その年彼はプロボウルに選ばれた。
前年に続いて1巡全体4位で指名されたカル・ロッシはNFLではプレーしなかった。
2巡でデトロイト・ライオンズに指名されたラス・トーマスは1967年から1989年までライオンズのゼネラルマネージャーを務めた[3]。
後にダラス・カウボーイズのヘッドコーチとなるトム・ランドリーが20巡でニューヨーク・ジャイアンツに指名されたが入団せずAAFCのニューヨーク・ヤンキースを経て1950年にジャイアンツに入団、現役時代は多くのインターセプトを記録した。
指名選手一覧
1巡指名選手
指名順位 | チーム | 選手名 | ポジション | 出身大学 |
1 | シカゴ・ベアーズ | ボブ・フェニモア | ハーフバック | オクラホマA&M大学 |
2 | デトロイト・ライオンズ | グレン・デービス | ハーフバック | 陸軍士官学校 |
3 | ボストン・ヤンクス | フリッツ・バージラウスカス | フルバック | 陸軍士官学校 |
4 | ワシントン・レッドスキンズ | カル・ロッシ | バック | UCLA |
5 | ピッツバーグ・スティーラーズ | ハブ・ベクトル | エンド | テキサス大学 |
6 | グリーンベイ・パッカーズ | アーニー・ケイス | クォーターバック | UCLA |
7 | シカゴ・カージナルス | テックス・カウルター | タックル | 陸軍士官学校 |
8 | フィラデルフィア・イーグルス | ニール・アームストロング | エンド | オクラホマA&M大学 |
9 | ロサンゼルス・ラムズ | ハーマン・ウェデマイアー | バック | セントメアリーカレッジ |
10 | ニューヨーク・ジャイアンツ | ヴィック・シュウォール | ハーフバック | ノースウェスタン大学 |
11 | シカゴ・ベアーズ | ドン・キント | ディフェンシブバック | ウィスコンシン大学 |
2巡以降の主な指名選手
指名順位 | チーム | 選手名 | ポジション | 出身大学 |
12 | デトロイト・ライオンズ | ラス・トーマス | タックル | オハイオ州立大学 |
18 | シカゴ・カージナルス | エルマル・アレン | クォーターバック | ケンタッキー大学 |
19 | フィラデルフィア・イーグルス | ビル・マクライズ | クォーターバック | ネバダ大学 |
21 | ロサンゼルス・ラムズ | ドン・ポール | ラインバッカー | UCLA |
22 | ニューヨーク・ジャイアンツ | ジョン・カナディ | ラインバッカー | インディアナ大学 |
58 | ピッツバーグ・スティーラーズ | ジェリー・シプキー | ラインバッカー | UCLA |
94 | ニューヨーク・ジャイアンツ | ロバート・ホーンシェメイヤー | バック | 海軍兵学校 |
103 | ロサンゼルス・ラムズ | ダンテ・ラベリ | エンド | オハイオ州立大学 |
104 | ニューヨーク・ジャイアンツ | ハーディ・ブラウン | ラインバッカー | タルサ大学 |
105 | シカゴ・ベアーズ | トニー・アダムル | ラインバッカー | オハイオ州立大学 |
146 | デトロイト・ライオンズ | トミー・ジェームズ | ディフェンシブバック | オハイオ州立大学 |
149 | ピッツバーグ・スティーラーズ | エルビー・ニッケル | エンド | シンシナティ大学 |
181 | グリーンベイ・パッカーズ | ブラッド・エクランド | センター | オレゴン大学 |
184 | ニューヨーク・ジャイアンツ | トム・ランドリー | ディフェンシブバック | テキサス大学 |
193 | ロサンゼルス・ラムズ | レオン・マクローリン | センター | UCLA |
204 | ニューヨーク・ジャイアンツ | アート・ドノバン | ディフェンシブタックル | ボストンカレッジ |
219 | ワシントン・レッドスキンズ | ボブ・スミス | ディフェンシブバック | アイオワ大学 |
231 | シカゴ・カージナルス | オットー・シュネルバッカー | ディフェンシブバック | カンザス大学 |
294 | ピッツバーグ・スティーラーズ | ウォーレン・ラー | ディフェンシブバック | ケースウェスタンリザーブ大学 |
ドラフト外入団の主な選手
チーム | 選手名 | ポジション | 出身大学 |
ワシントン・レッドスキンズ | ヒュー・テイラー | WR | オクラホマシティ大学 |
殿堂入り選手
この年のドラフトで指名された選手のうち、3名がプロフットボール殿堂入りを果たしている。
- ダンテ・ラベリ - 1975年殿堂入り
- トム・ランドリー - 1990年殿堂入り
- アート・ドノバン - 1968年殿堂入り
脚注
- ^ “Chronology of Football (1940-1959)”. プロフットボール殿堂. 2025年2月13日閲覧。
- ^ Barry Werner (2023年1月8日). “Who was chosen in the first round of 1947 NFL draft, the last time the Bears had No. 1 pick?”. LIST WIRE. 2025年2月14日閲覧。
- ^ “[1967https://www.nytimes.com/1991/03/21/obituaries/russ-thomas-sports-executive-66.html Russ Thomas; Sports Executive, 66]”. ニューヨーク・タイムズ (1991年3月21日). 2025年2月17日閲覧。
外部リンク
- 1947年のNFLドラフトのページへのリンク