1481年のクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:52 UTC 版)
「ミカイラス・オレリカイティス」の記事における「1481年のクーデター」の解説
1470年に兄弟のセメーンが死ぬと、公国はキエフ県に編入され、ポーランド王によって任命された知事(ヴォイヴォダ)が統治するようになった。これはミカイラスの祖父ウラジミールの代からキエフ公位の継承権を主張してきたオレリカイティス家にとって大きな打撃であった。ミカイラスがキエフ公国を継承できなかったのはカトリックを擁護するポーランドから見て異端である東方正教を信仰する姿勢に加えて、同君連合関係にあるリトアニアの東の国境を脅かしているモスクワ大公国のイヴァン3世と従兄弟の関係であることが原因とされた。たとえば1479年、ミカイラスはイヴァン3世の息子イヴァン・マラドイとモルドヴァ公シュテファン3世の娘エレナの仲人を務めている。リトアニアの政治に絶望したミカイラスはカジミェシュ4世に反対する勢力を募りはじめた。1481年、ミカイラスは親類のイヴァン・オルシャンスキー(Iwan Olshanski-Dubrovicki)およびフョードル・イヴァノヴィッチ・ベリスキー(Feodor Ivanovich Belsky)とともにクーデターを決意した。しかし、クーデターはたちまち暴露した。キエフ県知事イヴァン・ホトキェヴィチ(en)の密告が原因であるといわれている。ミカイラスとイヴァン・オルシャンスキーは処刑されたが、フョードルはかろうじてモスクワ大公国に亡命した。 1476年、ミカイラスと12人のルテニア貴族がローマ教皇シクストゥス4世に宛てた書状に署名している。この書状はキエフ府主教Misail Pstruchによって書き起こされたもので、バーゼル公会議への忠誠を誓い、カトリックと東方正教の統合を支持する内容である。一方でカトリックによる東方正教への差別を批判しており、教皇による監督を願い出ている。ただし、この手紙の真正性については未だ疑いの余地がある。
※この「1481年のクーデター」の解説は、「ミカイラス・オレリカイティス」の解説の一部です。
「1481年のクーデター」を含む「ミカイラス・オレリカイティス」の記事については、「ミカイラス・オレリカイティス」の概要を参照ください。
- 1481年のクーデターのページへのリンク