1485年のオスマン攻勢
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「オスマン・マムルーク戦争 (1485年-1491年)」の記事における「1485年のオスマン攻勢」の解説
バヤズィト2世は1485年にマムルーク朝に対して、陸海で攻撃を開始した。カラマンの新太守であるカラゴズ・メフメド・パシャに率いられたオスマン帝国軍は、主に地方から集められた部隊で編成されており、反抗的なトゥルグル(Turgudlu)とヴァサック(Vasak)部族を鎮圧し、キリキアで多数の城砦を占領した。カラゴズ・メフメドの軍隊は、1486年2月9日のアダナ郊外の戦いでマムルーク朝に敗れた。イェニチェリを含むイスタンブールからの援軍は、彼の義理の息子ヘルセクザーデ・アーメド・パシャの下でバヤズィトによって派遣されたが、オスマン帝国軍は3月15日に再びアダナの前で敗北した。カラゴズ・メフメドは戦場から逃亡し、ヘルセクザーデ・アーメドは捕虜となり、キリキアはマムルーク朝の支配下に戻った 。
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