1490年のマムルーク攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 19:05 UTC 版)
「オスマン・マムルーク戦争 (1485年-1491年)」の記事における「1490年のマムルーク攻勢」の解説
1490年に、マムルーク朝は再び攻勢に戻り、カラマンに進み、カイセリを包囲した。しかし、ヘルセザデ・アーメド・パシャが救援軍を率いて彼らに向かって進軍するとすぐに、彼らは包囲を解いてキリキアに戻った。この時までに、マムルーク朝は戦争とその重い財政的負担にうんざりしていたが、オスマン帝国も彼らに向けた十字軍が派遣される可能性を憂慮していた。両大国は勝ち負けのはっきりしない紛争の解決を強く望んでいた。トロス山脈のギュレック峠(キリキアの狭門)を相互の境界と定め、キリキア平原をマムルーク朝に委ねる条約が調印された。
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