高木翔之助とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高木翔之助の意味・解説 

高木翔之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/14 23:49 UTC 版)

『満洲大観』広告写真(1935年)

高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日[1][注 1]1980年〈昭和55年〉[2])は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。

事績

満洲における活動

群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。1930年(昭和5年)、満洲経済時報社社長となり、また、国民外交協会を創立して同会書記長となった[3]

国民外交協会書記長として高木翔之助は満洲国建国運動に従事することになり、満洲青年聯盟の起草委員・創立委員をつとめ[4]、更に『満蒙独立建国論』などの各種著書を刊行した。また、大連新聞社主催の満洲青年議会において、高木は独立青年党に属していたとされる[5][6][注 2]1932年(昭和7年)に新京で満洲改造社を創立し、月刊誌『満洲改造』を刊行した[1][3]

満洲における高木の言論活動は、満洲事変発動や満洲国樹立の正当性を訴えることに重きを置いており、満洲併合すら視野に入れるほどの強硬ぶりであった[7][8]。その一方で、高木は『満蒙独立建国論』において四族(日満漢蒙)協和の立憲共和国を主張していたことなどもあり[9]満洲国協和会が掲げた一国一党主義には猛反発して打倒協和会の言論を構えた、とされる。この結果、関東軍から発禁処分を4回も下され、『満洲改造』の広告を打つことが一切できなくなったという[10][11]。関東軍の出版弾圧に敢然と抵抗した高木だったが、1935年(昭和10年)6月に『満洲改造』は終焉を余儀なくされ、同年11月、高木は天津に移った[12]

華北における活動

高木翔之助は1934年(昭和9年)2月時点で、すでに天津で月刊誌『北支那』を発行していた。翌1935年に『満洲改造』を廃刊して『北支那』に統合し、社名も北支那社としたのである[注 3][1][3]。北支那社からは、自著『冀東政権の正体』なども刊行し、冀東防共自治政府樹立の正当性を訴えた。これとは別に北支那経済通信社も創立し、日刊『北支那経済通信』[3]や『北支・蒙彊年鑑』などを刊行している。また、小澤開作が運営していた華北評論社の『華北評論』で主筆もつとめた[注 4]。なお、大川周明とも知人であった[13]

満洲国で関東軍に弾圧され、短期で『満洲改造』を終刊させざるを得なかった高木翔之助だったが、『北支那』については創刊から10年以上継続し、1944年(昭和19年)まで長期刊行された。これは高木のジャーナリズム精神あってのことである旨を新船直孝は指摘している[2]

戦後の活動

戦後は伊勢崎市に移り、内外輿論調査所という会社を立ち上げる。1945年(昭和20年)11月5日、総合雑誌『輿論』を刊行した。創刊号は好評だった模様で、1万号を全国に配布したところ[注 5]、1部として返本されなかったという[14]。翌1946年(昭和21年)4月に休刊するも、1948年(昭和23年)7月1日に後継誌として月刊誌『群馬公論』を新たに刊行した[15][16]。『群馬公論』の論調は「保守的」であったと評されたが[10]、その一方で、政治家や企業経営者を集めた座談会を開催し、その議論を詳報していた[2]

1960年(昭和35年)11月20日投票の第29回衆議院議員総選挙において、高木翔之助は群馬県第1区(定数3)から無所属候補として立候補している。「警職法改正や国会周辺の秩序維持の法案など、社会党の反対でうやむやになってしまった。これは自民党に多数の議席を与えた国民の信頼にそむくものだ」[10]などと主張しつつ出馬した。保守系の候補と目されたが、自民党を含む政党や団体の後援は特に無かった模様である。それに加え、「南米100万人移民」[注 6]中国北朝鮮との政治的交流という独自の主張も見受けられた[10]。なお、選挙結果は僅か4,440票(得票率1.68%、11候補中9位)の惨敗に終わった[17]

その後も、高木翔之助は『群馬公論』の運営を続け、存命中は群馬公論社社長であり続けた。1980年(昭和55年)、死去。享年81[2][注 7]

著作

〔著作・編纂〕

  • 『この機会を逃すな 日支両軍交戦の真相と我対策』(満洲経済時報社、1931年)
  • 『満蒙独立建国論』(国民外交協会、1932年)
  • 『冀東自治』(北支那社、1936年)
  • 『冀東政権の正体』(北支那社、1937年)
  • 『北支事変とその動向』(北支那社、1937年)
  • 『冀東から中華新政権へ』(北支那社、1938年)
  • 『蒙疆』(北支那経済通信社、1938年)
  • 『北支・蒙疆年鑑』(北支那経済通信社、1939-1944年)

注釈

  1. ^ 満蒙資料協会(1942)、570頁は同年1月1日としている。
  2. ^ 独立青年党はジャーナリスト出身者が多かったという。また、満鉄社員を中心に結成され、後に満洲青年聯盟の中核部分となる青年自由党とは対抗関係にあったという(松沢(1983)、170-173頁)。
  3. ^ 統合後の『北支那』刊行は1936年(昭和11年)以降となる。
  4. ^ 小澤開作は青年自由党出身であり、元々は高木翔之助と対抗関係にある人物であった。
  5. ^ 販売元は東京都日本橋区の文進社出版部、配給元は東京都神田区の日本出版配給株式会社であった(伊勢崎市編『伊勢崎市史 資料編 4 (近現代 1)』、1987年、667-668頁)。
  6. ^ 将来起こり得る米ソ戦争において日本へコバルト爆弾が落ちる可能性があると主張し、国民保護の政策として提示したものである。
  7. ^ 高木死後も『群馬公論』(群馬公論社)は存続し(1990年代後半以降は季刊誌)、国立国会図書館群馬県立図書館の所蔵情報によれば、58巻1号(2005年1月号)までは刊行が確認できる。

出典

  1. ^ a b c 帝国秘密探偵社(1943)、「支那」76頁。
  2. ^ a b c d 新船(2018)、23頁。
  3. ^ a b c d 満蒙資料協会(1942)、570頁。
  4. ^ 満洲青年聯盟史刊行委員会編(1968)、33・39頁。
  5. ^ 菊池(1979)、368頁。
  6. ^ 松沢(1983)、172頁。
  7. ^ 高木(1932)、14-15頁。
  8. ^ 新船(2018)、25-27頁。
  9. ^ 満洲国史編纂刊行会編(1970)、118頁。
  10. ^ a b c d 「候補者スケッチ 4 南米に百万の移民を 第一区 高木翔之助氏 無 新」『朝日新聞』昭和35年11月4日、群馬版12面。
  11. ^ 「候補者の横顔 4 ペン一筋の正義漢 高木翔之助氏 無 新 一区」『読売新聞』昭和35年11月4日、群馬版12面。
  12. ^ 新船(2018)、29-30頁。
  13. ^ 柳沢(1982)、96-97頁。
  14. ^ 高木(1970)、213頁。
  15. ^ 伊勢崎市(1991)本編、680頁。
  16. ^ 伊勢崎市(1991)別冊、61・68頁。
  17. ^ 『国会便覧 昭和38年版 改訂新版』、日本政経新聞出版部、307頁。

参考文献

  • 新船直孝「在満ジャーナリスト高木翔之助の思想と行動」『群馬県立女子大学 第4期群馬学センターリサーチフェロー研究報告集』群馬県立女子大学群馬学センター、2018年3月、23-32頁。
  • 高木翔之助「雨亭先生と私」関口志行先生追憶録』関口志行先生顕彰の会、1970年。 、213-216頁
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。 
  • 菊池寛『満洲外史』原書房、1979年。 
  • 松沢哲成『日本ファシズムの対外侵略』三一書房、1983年。 
  • 柳沢一二『私の戦後 大川周明博士と共に』1982年。 
  • 満洲青年聯盟史刊行委員会編『満洲青年聯盟史』原書房、1968年。 
  • 満洲国史編纂刊行会編『満洲国史 総論』満蒙同胞援護会、1970年。 
  • 伊勢崎市編『伊勢崎市史 通史編 3 (近現代)』伊勢崎市、1991年。 ※本編・別冊で構成



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  高木翔之助のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高木翔之助」の関連用語

高木翔之助のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高木翔之助のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高木翔之助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS