高坂蔵人の乱
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慶長17年(1612年)に2代藩主・津軽信枚と、津軽騒動で信枚側につき活躍した重臣高坂蔵人が、1人の児小姓を奪い合った騒動。 慶長17年2月27日津軽信枚のお気に入りの児小姓八木橋専太郎を高坂蔵人が久里九兵衛の屋敷に招いた事の発端が始まる。信枚が幾度も命令したにも関わらず、八木橋専太郎を帰さなかったため、信枚が激怒、八木橋専太郎を弘前城に呼びつけその場で手討ちにした。そして、3月3日信枚は久里九兵衛の屋敷を攻め立て、久里九兵衛は寺に逃げ込み切腹して果てた。さらに、高坂蔵人の南部藩への脱藩計画も発覚。その翌日、弘前城に挨拶に来た高坂蔵人を乾安儔、竹森六之助、東海吉兵衛、服部孫助、兼平源助が殺した。その知らせを聞き、屋敷を取り囲まれた高坂蔵人の家来たちは、屋敷に火をつけ、下町馬屋町の戸田茂兵衛の屋敷へ逃げ込み、鉄砲を弘前城に撃ち込んだため、またも屋敷を取り囲まれ、激しい斬りあいの末一人残らず討ち取られた。高坂蔵人の母・同士、連判の士80名余りの家族・親類・縁者が斬罪になり、逃亡する家臣も多数出たため、弘前藩の家臣数が半分にまで減ったといわれている。
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