額田部連氏とは? わかりやすく解説

額田部連(宿禰)氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 14:12 UTC 版)

額田部氏」の記事における「額田部連(宿禰)氏」の解説

『日本書紀』第十九には、欽明天皇時代に、 二十二年に、新羅久礼叱(くれし)及伐干(きふばっかん)を遣(まだ)して、調賦(みつき)貢(たてまつ)る。司賓(まらうとのつかさ)饗遇(あへ)たまふ礼(ゐや)の数、常(つねのあと)に減(おと)る。及伐干、忿(いか)り恨みて罷(まか)りぬ。(二十二年に、新羅久礼叱(くれし)及伐干(きゅうばっかん)を遣わして、調賦をたてまつった接待役の礼遇仕方が並よりも劣ったいたので、及伐干は憤り恨んで帰った)訳:宇治谷孟 という事件があったのち、同じ年に 是歳(ことし)、復(また)奴氐大舎(ぬてださ)をを遣(まだ)して、前(さき)の調賦(みつき)献(たてまつ)る。難波(なには)の大郡(おほごほり)に、諸蕃もろもろのまらうと)を次序(つい)づるときに、掌客(をさむるつかさ)額田部連、葛城直(かづらきのあたひ)等(ら)、百済の下に列(つら)ねしめて引き導く。大舎(ださ)怒(いか)りて還る館舎むろつみ)には入らずして、船に乗り穴門(あなと)に帰り至りぬ。(以下略)(この年また、奴氐大舎(ぬてださ)をを遣わして、また前の調賦をたてまつった難波大郡(おおごおり接待庁舎か)に、諸国使者案内する時に接待役の額田部連、葛城直(かずらきのあたいらが、新羅百済の後に置いたため、大舎(ださ)は腹を立てて帰った客舎入らず、船に乗って穴門(あなと、長門)に帰りついた。(以下略))訳:宇治谷孟 となっている。これが文献上の額田部氏初出とされる欽明天皇推古天皇父親にあたり推古天皇欽明天皇15年554年生まれであり、額田部推古天皇名代だとすると、已に額田部氏額田部管掌行っていたことになり、符合する。 この1年後新羅任那官家(みやけ)を打ち滅ぼした、とある。 また、書紀巻第二十二『隋書』によると、608年推古天皇時代額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)が、隋の大使裴世清はいせいせい)らを海石榴市(つばきち)(現在の奈良県桜井市金屋)に出迎えて、「礼(いや)の辞」(挨拶のことば)を述べている。 額田部比羅夫は、610年にも新羅任那使人歓迎し、膳臣大伴かしわで の おみ おおともとともに、荘馬(かざりうま)の長を勤めている。翌611年には菟田野薬猟くすりがり鹿の若角袋角とり)の際に、粟田細目臣(あわた の ほそめ おみ)とともに部領(ことり=指揮者)をつとめた、ともある。 645年大化元年)には額田部連甥(ぬかたべ の むらじ おい)が法頭になっている額田部一族は、天武天皇の時、684年八色の姓で、宿禰姓を得ている。また、『続日本紀』巻第一によると、子孫とみられる額田部が(ぬかたべ の むらじ はやし)が大宝律令編纂参加している。

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