額田部連(宿禰)氏
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『日本書紀』巻第十九には、欽明天皇の時代に、 二十二年に、新羅、久礼叱(くれし)及伐干(きふばっかん)を遣(まだ)して、調賦(みつき)貢(たてまつ)る。司賓(まらうとのつかさ)饗遇(あへ)たまふ礼(ゐや)の数、常(つねのあと)に減(おと)る。及伐干、忿(いか)り恨みて罷(まか)りぬ。(二十二年に、新羅は久礼叱(くれし)及伐干(きゅうばっかん)を遣わして、調賦をたてまつった。接待役の礼遇の仕方が並よりも劣ったいたので、及伐干は憤り恨んで帰った)訳:宇治谷孟 という事件があったのち、同じ年に 是歳(ことし)、復(また)奴氐大舎(ぬてださ)をを遣(まだ)して、前(さき)の調賦(みつき)献(たてまつ)る。難波(なには)の大郡(おほごほり)に、諸蕃(もろもろのまらうと)を次序(つい)づるときに、掌客(をさむるつかさ)額田部連、葛城直(かづらきのあたひ)等(ら)、百済の下に列(つら)ねしめて引き導く。大舎(ださ)怒(いか)りて還る。館舎(むろつみ)には入らずして、船に乗りて穴門(あなと)に帰り至りぬ。(以下略)(この年また、奴氐大舎(ぬてださ)をを遣わして、また前の調賦をたてまつった。難波の大郡(おおごおり、接待用庁舎か)に、諸国の使者を案内する時に、接待役の額田部連、葛城直(かずらきのあたいらが、新羅を百済の後に置いたため、大舎(ださ)は腹を立てて帰った。客舎に入らず、船に乗って穴門(あなと、長門)に帰りついた。(以下略))訳:宇治谷孟 となっている。これが文献上の額田部氏の初出とされる。欽明天皇は推古天皇の父親にあたり、推古天皇は欽明天皇15年(554年)生まれであり、額田部が推古天皇の名代だとすると、已に額田部氏は額田部の管掌を行っていたことになり、符合する。 この1年後、新羅は任那の官家(みやけ)を打ち滅ぼした、とある。 また、『書紀』巻第二十二、『隋書』によると、608年、推古天皇の時代に額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)が、隋の大使裴世清(はいせいせい)らを海石榴市(つばきち)(現在の奈良県桜井市金屋)に出迎えて、「礼(いや)の辞」(挨拶のことば)を述べている。 額田部比羅夫は、610年にも新羅・任那の使人を歓迎し、膳臣大伴(かしわで の おみ おおとも)とともに、荘馬(かざりうま)の長を勤めている。翌611年には菟田野の薬猟(くすりがり=鹿の若角、袋角とり)の際に、粟田細目臣(あわた の ほそめ おみ)とともに部領(ことり=指揮者)をつとめた、ともある。 645年(大化元年)には額田部連甥(ぬかたべ の むらじ おい)が法頭になっている。 額田部連一族は、天武天皇の時、684年に八色の姓で、宿禰姓を得ている。また、『続日本紀』巻第一によると、子孫とみられる額田部連林が(ぬかたべ の むらじ はやし)が大宝律令の編纂に参加している。
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