順法路線の徹底と反発への対処
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「順法路線の徹底と反発への対処」の解説
1930年9月14日の総選挙に勝利したナチ党が勢いに乗じて再び一揆を起こすのではないかと話題になったが、ヒトラーは同年9月25日にライプツィヒのドイツ大審院(ナチ党運動に参加して反逆罪に問われた陸軍将校3人が裁判にかけられていた)に証人として出廷した際に「合法的手段で政権獲得を目指す」と宣言した。ゲッベルスとしては順法路線を党員に周知徹底させなければならず、次のように論じた。「憲法の枠内でいかなる政治目的の達成も可能である。そして革命的であるべきなのは目的である。方法ではない。バリケード上で戦っても目的が反動的でありえるのだ。逆に憲法の枠内で戦っても目的が革命的であることは十分可能である」。 だが順法路線は革命主義者が多い突撃隊員から反発と失望を招いた。ヒトラーは突撃隊と親衛隊に共産党との街頭闘争禁止を通達したばかりか、1931年3月28日にブリューニング首相によって出されたナチス弾圧の大統領緊急令「政治的過激運動撲滅のための命令」(集会・制服の禁止や検閲、新聞発禁など)にすら順法することを宣言し、違反した党員は党を除名すると警告を発した。これに反発したシュテンネスらベルリン突撃隊は、4月1日に秘密会議を開いて順法路線に反対する決議を出すとともに翌4月2日にベルリンの党大管区本部などを襲撃した。ヒトラーはただちにベルリン大管区指導者ゲッベルスに鎮圧の全権を任せた。ゲッベルスは再びダリューゲの親衛隊部隊を動員。今度は警察の助けを借りず、独力で鎮圧することに成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。追放されたシュテンネスら一派は後にオットー・シュトラッサーと共に革命的ナチスとして反ヒトラー闘争に奔走する。 1931年12月12日には2年前に実業家ギュンター・クヴァントと離婚していたマクダ・クヴァントと結婚した。式にはヒトラーも出席して仲人を務めた。
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