離婚、女優への執念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:21 UTC 版)
長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年に上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京した後、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する。 1903年、親戚の世話で最初の結婚をするが、病気がちを理由に舅に疎まれ、1年で離婚している。この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。この時期に俳優養成学校に願書を提出し面接も受けるが、鼻が低くて顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否される。しかし、女優になるという夢を諦めきれなかった須磨子は、当時としては最新の技術であった、鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を受けている。これにより、現在まで知られる顔になった。その後、俳優養成学校へ入学し念願の女優となった。日本初の整形美人女優と称されることもある。しかし、後年はその後遺症に苦しめられる。注入した蝋は比較的軟らかいもので、体温程度でも不安定な状態になり鼻筋からずれてしまうことも多かった。その度に自らの手で押さえていたという。そのようなことが頻繁にあったため体も拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こすこともあり、時には痛みで寝込むほどであったが、当時は抜去する手術が確立されていなかったため冷水で絞った手拭いで患部を冷やすことしか出来ず、ひたすら耐えるしかなかった。恋仲にあった島村抱月にもその醜態を指摘されることがあったという。
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