障害児殺人への抗議行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 17:36 UTC 版)
「全国青い芝の会」の記事における「障害児殺人への抗議行動」の解説
その当時、障害者介護が一つの社会問題となっていた。1967年8月7日、生まれてから27年間心身障害で寝たきりの息子を父親が絞殺し、無理心中を図った事件があった。一命を取り留めた父親は妻(被害者の母親)と共に自首した。マスメディアでは、障害者施設が無いゆえの悲劇として同情的に報じられ、身障児を持つ親の会、全国重症心身障害児を守る会などが減刑嘆願運動を行った。その結果、父親は心神喪失を理由に無罪となった。そして社会的には、障害者施設の建設による介護者の負担軽減が必要な事件と受け止められた。 しかし青い芝の会にとっては、まったく違う問題意識があった。介護疲れなどを理由に心神喪失が認められるのならば、障害者にとって生存権の危機であり、自分たちが介護者などに殺されても当然だと受け止められかねないと危惧したのである。こうして自分たち脳性麻痺者は、健全者には「本来生まれるべきではない人間」「本来、あってはならない存在」と見られていると認識し、そうした健全者社会に対して「強烈な自己主張」を行うこととなった。その活動は問題提起を重視しており、対案を要求されると、まず「われわれの問題提起を人々ががっちり受け止め」る必要があると主張した。その上で、障害者施設は必要悪であり、その弊害をいかにカバーするかという問題を考えなくてはならないとした。 1970年5月29日、横浜市金沢区で母親が介護を苦にして、重度心身障害児のわが子を絞殺した事件があった(この事件の被害者は知的障害と身体障害の重複障害児であり、脳性麻痺者ではなかった)。この事件でも母親に同情的な立場から減刑や無罪を嘆願する運動が起こった。そこで全国青い芝の会は、罪は罪として裁くよう厳正な裁判を要求した。この活動から全国青い芝の会が注目されるようになった。結果的に母親は有罪となったが、懲役2年の求刑に対し執行猶予3年と、殺人事件としては非常に軽い量刑であった。当時の殺人罪の量刑は「死刑又ハ無期若シクハ三年以上ノ懲役」であり、検察官による求刑の時点から情状酌量されていたことになる。 これらの事件に対する抗議行動により、青い芝の会が広く知られることになった。
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