隈板内閣の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:55 UTC 版)
10月21日、板垣内務大臣は単独で参内し、尾崎を弾劾した上でともに内閣にとどまることはできないと上奏した。翌10月22日、明治天皇は侍従岩倉具定を大隈首相と尾崎のもとに派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう求めた。尾崎の回想によれば、岩倉は、尾崎罷免の理由はあくまで板垣がともに内閣にとどまることができないと述べたによるものであり、共和演説は無関係であると説明したという。大臣本人、あるいは首相が辞任・罷免の意思を示さないうちに、天皇が罷免の意思を「内旨」という形で示す事態は大日本帝国憲法下ではおそらく唯一の事例であった。佐々木高行の記録によれば、天皇が罷免の意思を示す際に側近からの働きかけはなかったという。 尾崎は内閣は連帯責任であると主張し、単独での辞任になかなか応じようとしなかったが、犬養毅の説得により22日中に辞表を提出した。しかし尾崎の後任をめぐって旧進歩党派・旧自由党派の対立は深刻化した。10月26日には大隈首相が参内し、閣内不統一を理由に進退伺を行った。天皇から辞任の必要はないと言う言葉を受けると、独断で進歩派犬養毅を後任に決定した。翌10月27日の親任式に先立ち、板垣内務大臣は犬養文部大臣就任への反対意見を上奏した。 10月29日、旧自由党派は憲政党の解散を一方的に宣言し、新たに自由党派のみで「憲政党」を新設した。さらに板垣ら旧自由党派三大臣は大隈首相を通さず、直接天皇に尾崎の共和演説を理由とする辞表を奉呈した。旧進歩党派はこれに対抗して同名の憲政党を立ち上げたが、板垣は内務大臣の権限で憲政党の名乗りを禁止した。大隈は進歩党系のみで内閣を維持するつもりであったが、桂陸軍大臣の上奏を受けた明治天皇は、桂の進言に基づき板垣に留任を求めるよう大隈に命じた。しかしこの進言は板垣が大隈のもとで留任することはないと知っていた桂が、進歩党系単独の内閣存続を阻止するための罠であった。桂は自由党系とつながっており、次の山縣系内閣に旧自由党派が協力するという密約を結んでいた。10月30日、黒田清隆枢密院議長が桂陸軍大臣・西郷海軍大臣らに手紙を出し、内閣の存続を阻止するよう伝えた。これを受けて西郷は、大隈に辞職を勧告した。孤立無援となったことを悟った大隈は、辞表を取りまとめて10月31日に総辞職した。11月8日には第2次山縣内閣が成立、旧自由党派の憲政党は閣外協力を行うこととなった。旧進歩党派は憲政本党を名乗り、これに対抗していくこととなる。
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