防空指導と消火弾
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1941年(昭和16年)9月3日発行の日本政府刊行物『写真週報』第256号では、日本への焼夷弾攻撃は必至であるとし、爆撃機数を20機、投下弾量を5kg焼夷弾4,000発と仮定して防空を説いた。実際には1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲において、279機のB-29が1,783tの焼夷弾を投下し、弾数は38万1300発にのぼった。命中率に関し、『週報』では7割が田畑、道路に落下し直撃は滅多にないとしている。さらに油脂、テルミット、硫黄を用いた焼夷弾に対し、延焼防止策を説明したが、その第一は濡れムシロ、濡れ布団、土砂を直接焼夷弾へかぶせる手作業であり、化学的消火機材の使用法は説明されていない。また頑健な国民精神を基礎とし、焼夷弾を自分たちの手で処理すること、自らの判断で持ち場を勝手に離れないこと、事前の避難退去の禁止を説いた。その上で防火用水、バケツ、土砂、火たたき、筵、シャベル等の器具を各家庭で用意し、隣組の共通装備として軽便ポンプ、泡沫消火器、四塩化炭素消火器を備えるよう指摘した。こうした消火器は油脂焼夷弾に対して非常に効果があると説明しているが、化学的な消火機材に関し、『写真週報』第256号では各家庭に持つ必要はないとし、隣組の持つべき消火器、消火弾の十分な数量についてはまったく指摘していない。この論調は、1943年(昭和18年)7月21日発行の『写真週報』第353号の「時局防空必携」でも変化はなく、消火作業の主体は手作業であった。
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