阪神・独立リーグ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 02:08 UTC 版)
「グレン・デービス (野球)」の記事における「阪神・独立リーグ時代」の解説
同年オフに日本プロ野球の阪神タイガースに入団した。「デービス」という姓には近鉄バファローズで中軸を務め、1988年に大麻取締法違反で逮捕され球界を追われたリチャード・デービスのイメージがあったため、名前のグレンが登録名とされた。 1995年はオープン戦から好調を維持し、開幕戦で来日初本塁打を記録するなど、上々の滑り出しを見せる。その後も4番打者として活躍を続けたものの、夏場以降は古傷の脇腹痛の影響から徐々に成績が落ち込み、シーズン終盤は同期入団のスコット・クールボーに4番を譲って、5番や6番で出場する場面も見られた。この年は120試合に出場したが、前半の60試合は2割9分3厘、16本、50打点と結果を残したのに対し、後半60試合は2割1分9厘、7本、27打点と顕著な不振に陥った。それでも最終的に打率.256、チームトップの23本塁打、クールボーと並んでチームトップタイの77打点を記録したことが評価され、翌年も残留することになった。 1996年シーズンは、藤田平監督ら首脳陣との確執から開幕メンバーを外される。その後スタメンに復帰するも、調子は上がらず、5月1日の横浜ベイスターズ戦で代打サヨナラ満塁本塁打を放つなど意地を見せたものの、結局同年6月中にクールボーと共に途中解雇され、そのまま帰国した。1996年7月6日発売の週刊現代に『史上最悪の助っ人がダメ虎を叩っ斬る!--グレン・デービス「阪神ベンチは刑務所のようだった!」』という記事が掲載された。 帰国後、シーズンの残りをアメリカの独立リーグであるノーザンリーグのセントポール・セインツでプレーし、同年限りで現役を引退した。
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