開拓小史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/19 20:02 UTC 版)
広留野には戦国期の武将、安藤義光の墓地がある。安藤義光は私都川の中流にあった津黒城(市場城の支城)の城主で、豊臣秀吉の因幡攻めによって落城した。義光は広留野を通って但馬国へ脱しようとしたが、落ち武者狩りにあい、落命したと伝えられている 。 江戸時代の早い時期には木地師の定住があったとも考えられている。細見川沿いの妻鹿野(めがの)の村落と来見野川沿いの諸鹿の村落のあいだで、しばしば広留野をめぐる争いがあり、宝暦年間には両方の村の入会地と裁定されている。江戸後期には郡家の農家、安藤仁衛門が稲作を試みたが不首尾に終わった。 大正時代にも若桜の人物が国費を得て入植を試みたが、政争の混乱のために援助が途絶えて3年で撤退した。 昭和期の入植は太平洋戦争後の緊急開拓事業にもとづいて、1948(昭和23)年から始まった。2戸の開拓農家にはじまり、やがて2桁の世帯が入植して約60haを開墾してソバ、ダイズ、ジャガイモの栽培や稲作を試みた。しかし当時は麓と高原を結ぶ道は悪く、しばしば崩落したり、冬になると雪に閉ざされる有様で、高原への定住を断念して離農するものが増えた。1960(昭和35)年には入植者は5戸にまで減った。 1964(昭和39)年から、冷涼な気候を活かしてダイコンを端境期の夏に出荷する試みがはじまり、これが成功した。道路整備も行われて、麓に定住しながら広留野の耕作が行えるようになり、再び耕作者は二桁に復した。広留野の夏ダイコンは広留野大根の名で京阪神方面に出荷されている。近年の作付面積は14ha(2012(平成24)年)、出荷量は約700トンとなっている。
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