鉄鋼業界指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 07:01 UTC 版)
野呂は農商務省の技師を兼ね、松方正義、榎本武揚に協力して、官営製鉄所建設計画や製鉄工業化試験に尽力したが、東京市水道鉄管事件に巻き込まれて、1896年以降は一切の公職を辞している。 1880年に官営・釜石製鉄所が操業開始したが、 まもなく原料不足と技術を全てイギリスから直輸入したため、2年で閉鎖している。しかし、1887年には釜石鉱山田中製鉄所が発足し、操業を開始する。1894年に野呂が顧問として迎えられ、日本初のコークス炉を利用した銑鉄生産が成功した。 1895年製鉄事業調査会が発足し、牧野毅などと共に調査委員に任命されたが、国は早急な計画で本格的な製鉄所の開始を期待したが、野呂は地道な技術による開発を主張したため、調査会からは追い出された。 1901年2月に官営八幡製鉄所がドイツ技術で創業を開始したが、その第1高炉の火入れの結果は惨憺たるもので、翌々年4月にコークス炉の完成を待っての第2の火入れも17日で停止せざるを得ない有様であった。野呂が呼び出されて、様々な調査と改良が行なわれて、1904年7月に第3の火入れが行なわれて、第1高炉は1910年6月まで連続稼働し、2140日に亘って出銑を続けた。 野呂は1922年3月以来の肺炎の予後で病床にあったが、1923年9月1日の関東大震災で芝・烏森にあった日本鉄鋼協会の会館が壊滅した悲報に接する中、数日後の9月8日に永眠した。
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