鉄鋼業進出
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「木曽川電力」も参照 第一次世界大戦による大戦景気を背景に、福澤は余剰電力を利用した工業の起業を計画し、名古屋電灯顧問となっていた技師寒川恒貞にその調査を命じた。これに対して寒川がフェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼などを製造する電気製鋼を提案したことから、名古屋電灯では同事業へ進出することとなった。まず1915年2月より熱田発電所の一角において実用化に向けた試験を開始。同年10月には社内に「製鋼部」を新設し、試験結果を受けて工場を着工した。1916年8月19日、工場の操業開始とともに名古屋電灯は製鋼部を独立させ資本金50万円の「株式会社電気製鋼所」を設立する。操業開始が大戦中の鉄鋼価格高騰期に重なったため、開業早々年率10パーセントの配当をなすなど電気製鋼所の業績は当初から順調であった。 このような電気製鋼所の好調を受けて、名古屋電灯では1917年(大正6年)6月社内に「製鉄部」を設置し、電気で銑鉄を生産するという電気製鉄の研究に着手する(電気製鉄についての詳細は木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開参照)。工場は名古屋市内に建設され、この製鉄部と先述の臨時建設部をあわせて独立させた木曽電気製鉄の設立(1918年9月8日)とともに操業を開始した。こうして銑鉄の生産を始めたものの、技術的な問題が発生したため間もなく生産は中止されている。そのため木曽川の水利権を確保するための看板として注目を集めていた新事業電気製鉄が利用されただけとも言われる。その後製鉄部は銑鉄製造から鋳鋼の製造へと転換した。 木曽電気製鉄はその後大同電力となったが、電気事業に対して副業となった製鉄部門は1921年11月に同社から分離され、大同製鋼(初代)となった。翌1922年(大正11年)7月、大同製鋼が電気製鋼所より鉄鋼部門を現物出資の形で引き受け、名古屋電灯を母体とする鉄鋼メーカーは大同製鋼改め大同電気製鋼所に一元化された。この大同電気製鋼所は後の大同製鋼(2代目)で、現在の大同特殊鋼の前身にあたる。一方、鉄鋼部門を分離した電気製鋼所は、長野県木曽地域を供給区域とする木曽川電力として1942年(昭和17年)まで存続した。
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