鉄路総局の設置
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運営委託からほぼ1ヶ月後の1933年3月1日、満鉄ではこれら満洲国有鉄道の運行管理を行うため、奉天に「鉄路総局」と呼ばれる運行統括部署を、大連に「鉄路建設局」と呼ばれる建設部署を設置した。なお、これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線を「国線」と呼ぶようになった。 ただしこの鉄路総局は満鉄の部署ではあったものの、その設置や運営には満洲国政府の裏で隠然たる勢力を誇っていた関東軍が強く関与していた。関東軍は自分たちが占領した満洲の鉄道を軍事輸送線として活用することを考え、その利権を掌握せんと以前から動いていた。この鉄路総局設置の際は、それをさらに進めて関東軍が満鉄に対し強い管理権・統制権を持つと規定した「鉄道港湾河川の委託経営並新設等に関する協定」を結んでおき、彼らの側で部署名を決定したり営業報告を行ったりと、まるで関東軍の一部署であるかのような扱いを行った。そもそも別の部署を作ったこと自体も、満鉄の会計と別会計にしておくことで関東軍が自由に出来るようにするという含みがあった。 これに対し、満鉄側には強い不快感を示すむきがあった。本業が鉄道会社である自分たちに対し、過度に関東軍が介入どころか統制するようなやり方で頭を押さえつけて来ていることや、別の協定で満鉄の収益が関東軍に流れるようにされた上にわざわざ一定の金を払うように決められたりと、関東軍が露骨に満鉄の利益を貪ろうとしているのが明らかだったためである。「鉄道港湾河川の委託経営並新設等に関する協定」自体も関東軍司令官と満鉄総裁の間の協定であったため、ここに権限がないはずの関東軍がからむのはおかしい、やるならばきちんと満洲国政府や日本政府を通せ、という声まで上がった。 また関東軍側が示した計画路線も、ほとんどが軍事路線であり、鉄道経営の面からはとても採算の取れる路線でないものも少なくなかった。それどころか、総局が立てた路線計画にも介入し、収益の上がる線区を「軍事的に重要でない」として無理矢理変更したり、削除したりするという行為に出た。これは鉄道会社である満鉄には承服しかねることであったが、関東軍の勢いの前に従うよりほかなく、泣き寝入りを強いられる。このような軋轢により、これ以降協力関係にあった関東軍と満鉄の関係は急速に悪化し、互いに不信すら抱くようになって行った。 一方、鉄路総局・鉄路建設局は計画通りに次々と新線の建設を進めた。これにより路線群の統廃合が進み、路線名も変更が進んだが、いまだに鉄路局は以前のままであった。そこで1934年4月1日にただ接収前の本社を流用しただけの鉄路局を根本的に見直し、奉天・新京・哈爾浜・洮南の4鉄路局に統合した。
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