金春秋の対唐外交に対する評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:37 UTC 版)
「武烈王」の記事における「金春秋の対唐外交に対する評価」の解説
宇山卓栄は、「金春秋は唐の援助を取り付けます。しかし、これにより、新羅は唐の属国に成り下がります。唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、官制も唐に倣い、新羅独自の年号を廃し、唐の年号を用いて、唐に服属したのです。弱小国の新羅が百済・高句麗連合に対抗し、生き残るためとはいえ、その行動は売国的でした。超大国である唐の属国になれば、新羅の民は唐の事実上の奴隷となることは明白であり、それをわかっていて、新羅の王族はこのような選択をしたのです。百済、高句麗、新羅の三国は古来、激しく対立してきました。しかし、中国こそが最大の脅威であるという暗黙の合意がこの三国にはありました。互いに敵対しながらも、その共通認識に基づいて、三国の外交が展開されてきたのです。どこか一国でも、中国の脅威に浸食されはじめれば、朝鮮全体が中国に奪われ、隷属を強いられるということを三国は理解していました。新羅はその暗黙の合意を破り、一線を越えました。百済や高句麗も、まさか新羅が自分からプライドも何もかも捨て、唐の属国に成り下がるような真似をしてまで、唐と手を組みたがるとは思っていなかったでしょう。驚天動地、全ての前提を覆す出来事でした」「新羅は唐の従属国でしたが、後の時代の、元王朝に支配された高麗や、明・清王朝に支配された李氏朝鮮のような中国の隷属国ではありませんでした。未だ、新羅は従属国の範囲内に止まっていたと言えます。新羅は唐軍を朝鮮から排除することができたからです。高麗や李氏朝鮮は中国に主権を全て奪われ、もはや国ですらなく、中国の属邦に成り下がっていきます。しかし、新羅も一歩間違えれば、隷属国になっていました。チベットや突厥などの異民族勢力が唐と戦っていたからこそ、新羅は唐を排除できたのであり、たまたま幸運が重なったというだけのことに過ぎません」と評している。
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