重なる苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 22:13 UTC 版)
「アマデオ1世 (スペイン王)」の記事における「重なる苦難」の解説
イタリア王太子の身分にあった兄ウンベルトより一足先に王の身分を手に入れ、アマデオ1世は装甲艦ヌマンシアに乗船してスペインに入国した。王都マドリードでプリム元帥ら立憲君主派の歓迎を受け、ボルボン家が用いていたマドリード宮に入城する。山積している諸問題を前に、差し当たってアマデオ1世には議会で立憲君主制の護持を約束することが求められたが、即位から2か月と経たないうちに衝撃的な政変が起きることとなる。 1870年12月28日、プリム元帥は議会内の私室で何者かによって銃撃され、治療も虚しく2日後に没した。最大の後ろ盾であったプリム元帥の急死は、アマデオ1世の立場を一夜にして不安定な状態に追い込んだ。元帥の葬儀が行われた後、アマデオ1世はコルテスで立憲君主制を支持する宣誓を行った。 宮殿内での立場を失ったアマデオ1世に追い討ちをかけるように、キューバ独立問題、絶対君主派(カルリスタ)の再蜂起、共和主義派による暗殺事件など、次々と難題が降りかかった。頼みの綱である立憲君主派も穏健派と強硬派に分かれて争う始末で、第二次カルリスタ戦争もカタルーニャ人・バスク人の自治運動と結びついて泥沼化していった。アマデオ1世は王国軍を動員して反乱の鎮圧に奔走したが、国民がサボヤ家にも幻滅する結果を招いた。 1873年2月11日、もはや収拾がつかなくなった争いに疲れ果てたアマデオ1世は、スペイン王からの退位を宣言した。同日の夜に勢いづいた共和派がスペイン共和国(第一共和政)の樹立を宣言する中、議会に出席したアマデオ1世は「この国は余の手に負えぬ」と述べるに留まった。新たに立憲君主派がイサベル2世の嫡男アルフォンソ12世を、カルリスタ派がカルロス・マリアを立てて共和派を交えた内戦を再開するのを尻目に、アマデオ1世はイタリアに戻った。故国ではアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタの名に戻り、父から与えられていたアオスタ公としての責務に専念した。 アマデオ1世は元々スペインという国には好意的ではなく、貴族としても洗練されていなかった。ミゲル・デ・セルバンテスの邸宅を馬車で通り過ぎた際、配下の貴族から「かの有名な小説家の自宅です」と言われると、「そうかね。それほど有名なら謁見の機会があろう」と答えたと言われている。このこともアマデオ1世が国民の人気を欠き、治世を安定させられなかった一因とされている。退位の翌年に第一共和政は打倒され、アルフォンソ12世を君主としてスペイン・ブルボン朝が復古された。
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