遺跡・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 04:39 UTC 版)
条里の遺跡の碑 大和政権が実施した条里制の痕跡。「条里南道」と記された碑は、明治20年(1887年)ころ、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言。尾久西小学校付近一帯に、班田制による条里の遺跡と思われる水田区画が残っていたといわれ、その保存法を進言して標示石を立てたという。当時下尾久村や町屋にもこの田園区画が残っていたといわれ、荒川の流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。条里制は大化元年(645年)以後行われた耕地整理であり、主として平野や盆地などの平地に見られるため条里があったことで、奈良時代には既にこの辺りが平地であったことがわかる。 十三坊塚 東京都立大学荒川キャンパス付近はかつて十三坊という名で呼ばれており、『新編武蔵風土記稿』によれば、旧上尾久村側に「十三坊塚 当所ニ四所アリ。高各五尺許。」と4基、下尾久村側に「十三坊塚 村北ニアリ。高サ五尺、廻リ七八間。八ケ所程アリ。此内ニ砂利塚ト唱ヘルアリ。永禄年中、太刀具足様ノモノヲ掘出セシコトアリシト云。」と8基あり、高さ1.5m、径13から15m程の塚が計12基が所在していたようある。この十三坊という地名は古代の条理制に基づく地名らしく、また、塚から太刀や具足の類が出土したという記事から武具を副葬した古墳群であったとも考えられ、荒川区報では古墳であったろうと推定されている。
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