遺留分法制の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:27 UTC 版)
上記のとおり、西欧系諸法域の遺留分法制はローマ法とゲルマン古法とに淵源を持つ。 十二表法時代より前の最古期ローマにおける相続慣行は、文献資料が乏しく、よく分かっていない。家産は家長個人にではなく一族に帰属するものと観念されていたので、死に臨んで家長が家産を自由に処分するという発想自体がなかったと考えられている。時代が下ると、家産は家長の所有物と見なされるようになり、家長の交代はその所有権の移転と捉えられて、自権相続人 sui heredes(跡取り)という概念が登場した。 遺言の自由の制限は、卑属と、場合によっては尊属も、本質的な相続人であり、正当な例外事由のあるときに限り相続から排除することができるという自然法上の理念に起因する。加えて、子どもたちと寡婦を扶養する必要があることも、例えば相続参加権 Beisitzrecht の形成に寄与した。 遺留分の総量は相続財産の総量に基づいて決まるが、法制度にもよるし、相続人の数や関係にもよる。ときには、現物分割を避けるために相続財産の分配及び義務的相続分に対する代償金の支払を禁止する特別な規定が存在することもある。 遺留分の総量の定め方は非常に多様である。ユスティニアヌス1世がローマ法大全を編纂(へんさん)させるまでは、遺留分は相続財産の4分の1に相当するもので構成すべきものとされていた。ユスティニアヌスは、この割合を、子が4人を超えないときには3分の1に引き上げた。この3分の1という割合は、19世紀に現れた多くの民法典の中に見出せる。
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