遊芸民と白拍子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
傀儡子には男性も女性もあり、操り人形などもおこなったが、女性はときに売春に身をおとすこともあった。ただし、1249年(建長元年)、駿河国宇都谷郷今宿の傀儡が久遠寿量院の雑掌を相手に訴訟し、幕府の法廷において勝訴していることから、少なくとも中世前期の遊女・傀儡は供御人や神人と同じ立場であり、必ずしも後代のように卑賤視の対象ではなかったことが知られる。これは、白拍子も同様であった。一方、この訴訟は、漂泊の遊芸人であった傀儡が定着し、田地の耕作をおこなうこともあったことを示している。 鎌倉時代には、「漂泊の世紀」にふさわしく、多種多様な旅芸人の活躍がみられた。鎌倉幕府成立を祝賀し、その存続を祈念する行事として位置づけられた1193年(建久4年)の富士の巻狩においては、有名な曾我兄弟の仇討ちがおこっているが、この経過は「大磯の虎」とみずから称した女芸人(虎御前)によって語り広められたものである。社寺や道々には、猿に芸をさせる猿引、紅白の衣装をつけて舞う曲舞、古い散楽の系統をひく呪師(のろんじ)、陰陽師を流れをひく唱聞師、風流(ふりゅう)など遊芸の人びとが集まった。 遊女と傀儡は一括して呼称されることも多かったが、白拍子は両者から区別され、水干に袴姿の男装で鼓を伴奏に謡い舞うものである。元来は仏教の声明道における用語で、大寺院の延年舞などの際に童僧が素声(しらごえ)すなわち日常に近い音声で謡ったものである。権力者との関係も知られ、平清盛と祇王・仏御前、源義経と静御前、後鳥羽上皇と亀菊などが知られる。源頼家と微妙のあいだにも悲恋があった。白拍子は、当初は都で流行し、やがて鎌倉や地方へと広がっていった。
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